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歌川 豊広(うたがわ とよひろ、安永3年〈1774年〔『名人忌辰録』に記載された享年56から逆算。豊広には『浮世絵師歌川列伝』にある、享年65説(明和2年(1765年)生)もある。〕〉 - 文政12年12月21日〈1830年1月15日〉)とは、江戸時代中期の浮世絵師。 == 来歴 == 歌川豊春の門人。姓岡島、俗称藤三郎〔『浮世絵類考』における式亭三馬の補記では「勝次郎」、『増補浮世絵類考』での斎藤月岑の記述では「藤次郎」となっており、以後諸書の記述では「藤次郎」が踏襲されていく。しかし、江戸期の雅俗の文人墨客の手紙を集めた、「尺璧帖」(東京国立博物館蔵)内にある豊広自筆と思われる書状では、「藤三郎」と署名しており、こちらが正しいと推測される。「藤次郎」あるいは「勝次郎」の表記は伝写の過程で、藤三郎→藤二郎→藤次郎→勝次郎、という風に誤写されていったためろう(大久保(1995)pp21-23)。〕。一柳斎と号す。芝片門前町に住んでいた。 歌川豊春に入門し、一柳斎と称して天明8年(1788年)頃から作画を始める。初代歌川豊国とは同門であったが、豊広の作品は豊国より地味で、それが美人画や風景画にも現れている。豊春門下では豊国に次ぐ実力者であったが、版本の挿絵が活動の主体で、山東京伝や曲亭馬琴らの作品に携わっている。豊国のように役者絵に没頭しなかったので、門人に初代歌川広重の様な風景画家が輩出することとなった。広重の師として若干の風景画も残している。豊国と比較すると作品数は極めて少ないが、寛政(1789年 - 1801年)末年から文化(1804年 - 1818年)期に描いた美人画には、清楚でどこか弱々しく淋しげな表情が見られ、すらりとした柳腰の独特な趣がある。縦二枚続は豊広の創案と考えられる。また、肉筆美人画には叙情性の豊かな優れたものが数多く見られる。文化3年(1806年)から文政10年(1827年)頃まで、曲亭馬琴に認められてその読本に数多くの挿絵を描いた。錦絵の代表作として、「豊国豊広合作十二候」や「江戸八景」などがあげられる。享年56。墓所は港区虎ノ門の専光寺。法名は釈顕秀信士。 豊広の門人には「東海道五十三次」の作者として著名な歌川広重のほか、息子の歌川豊清、歌川広近、歌川広演、歌川広兼、鳥羽広丸、歌川広恒、歌川広昌、歌川広政、歌川直広、歌川豊熊、歌川芳広らがいた。歌川広昌は沼津で旅人宿「太平屋」を営み、文化のころ活躍している。また歌川広政と同一人ともいわれる。歌川芳広は享和3年(1803年)の書画会の摺物のなかに、他の門人とともに名前がみられる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「歌川豊広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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