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一柳氏(ひとつやなぎし)は、日本の氏族(武家)。本姓は越智氏。伊予国(現在の愛媛県)の河野氏の庶流。家紋は一柳釘抜など〔『寛政重修諸家譜』によれば、一柳家の諸家は以下の諸紋を用いている。「丸に釘抜」(西条藩主家、小松藩主家、旗本一柳直里家)、「丸に二重釘抜」(小野藩主家、旗本一柳直郷家)、「一重釘貫」(旗本一柳直郷家の古伝)、、「三文字」(寛永譜時点の西条藩主家)、「折敷三文字」(旗本一柳直里家の古伝)、「折敷三文字一鱗」(小松藩主家の古伝)、「隅切角に縮三文字」(旗本一柳直郷家、小野藩主家の古伝)〕。 == 家譜 == 『寛政重修諸家譜』が記すところによれば、河野通直(弾正少弼)の子宣高が美濃国厚見郡西野村(現在の岐阜県岐阜市)に移り、土岐氏の家臣になって一柳氏を称したという〔『寛政重修諸家譜』巻六百三〕。「一柳」の家名は、土岐氏が宣高を招いた蹴鞠の場で鞠庭の柳がひときわ鮮やかであったことが由来とされる〔。しかしながら、系譜上の世代数の不自然さなどから〔河野通直が1500年生まれであるのに、曾孫に当たる一柳直末が1546年生まれである。3代続けて少なくとも15、6歳で子をなしたことになり不自然である。また、近年の研究で河野通直の後を継いだ河野晴通(1522年生)が通直の実子である可能性が高まっており、一柳宣高が河野晴通より早く生まれていた兄なのであれば、河野氏側の史料で宣高の存在が確認できないことも疑問となる。〕、河野通直の子孫であることには疑問が呈されている。 宣高の孫の一柳直末・一柳直盛兄弟が豊臣秀吉に仕え、兄の直末は美濃国の軽海西城主となったが天正18年(1590年)小田原征伐のときに、緒戦の山中城攻めで戦死した。弟の直盛は尾張国(今の愛知県西部)黒田城3万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢国(三重県)神戸藩5万石に加増転封された。更に寛永13年(1636年)には伊予国西条藩6万8600石に移転したが同年死没した。彼の遺領は直重・直家・直頼の3人の息子たちによって分割された。 長男の直重が西条藩3万石を相続して2代藩主となったが、その子直興の代に勤仕怠慢の理由により除封された。 次男直家は播磨国(兵庫県)加東郡及び伊予宇摩郡・周布郡に2万8600石を領し、小野藩初代藩主となった。しかし直家の死後は末期養子が認められず1万石に減封され、幕末に至った。歴代藩主は対馬守や土佐守などに叙任され、明治17年(1884年)一柳末徳が子爵となった。 3男直頼は伊予国周布郡・新居郡に1万石を領し、小松藩初代藩主となりそのまま幕末に至った。歴代藩主は兵部少輔や美濃守などに叙任され、明治17年(1884年)に一柳紹念が子爵となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一柳氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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