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一柳 頼邦(ひとつやなぎ よりくに)は、江戸時代中期の大名。伊予小松藩の第4代藩主。 == 生涯 == 元禄8年(1695年)12月8日、小松藩藩主一族である一柳治良(第2代藩主一柳直治の次男)の長男として、小松で生まれる〔。 直治から家督を譲られて第3代藩主となったのは伯父の頼徳(直治の長男)であった。男子のなかった頼徳ははじめ自身の弟である直堅(直治の三男)を養嗣子としていたが、直堅は頼徳が藩主となる直前の宝永2年(1705年)に早世している。正徳4年(1714年)9月、頼邦は伯父である頼徳の養嗣子となり〔、同年10月には将軍徳川家継への初謁を果たしている〔。享保9年(1724年)、頼徳の死去により跡を継ぎ〔、同年12月従五位下兵部少輔に叙任した〔。 頼邦の治世において、小松藩は享保の大飢饉による甚大な被害を受けた。享保17年(1732年)には「飢人」が住民の4割を超え〔増川・北村(2001年)、pp.156-157〕、藩はその救済に追われた。この飢饉では、隣藩の松山藩が多くの餓死者を出したのに対し、小松藩領内での餓死者は皆無であった〔。小松藩の「会所日記」を解説した増川宏一は、小藩であるがゆえに領内の不作の兆候の把握が早く、対策が立てられたこと、また日頃からの備蓄米が功を奏したことによるものと評している〔。 延享元年(1744年)7月8日、江戸で死去。享年50。跡を三男・頼寿が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一柳頼邦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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