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一柳 直興(ひとつやなぎ なおおき)は、江戸時代前期の大名。伊予西条藩の第3代藩主。 寛文5年(1665年)、職務怠慢や失政などを理由に改易された。 == 生涯 == 寛永元年(1624年)、一柳直重(のちの西条藩第2代藩主)の長男として、伊勢国神戸〔当時神戸藩主であった祖父一柳直盛の所領〕に生まれる〔。寛永15年(1638年)、徳川家光に初謁〔。 正保2年(1645年)12月1日、父の死去により跡を継いだ〔。このとき5000石を弟の直照に分与したため、西条藩は2万5000石となった〔。正保3年(1646年)12月30日、従五位下に叙され、監物と称す〔。寛文4年(1664年)4月5日、徳川家綱より領知朱印状を受けている〔。しかし寛文5年(1665年)7月29日、職務怠慢や失政などがとがめられて改易され〔、身柄は加賀藩の前田綱紀に預けられた〔。 『寛政重修諸家譜』には、改易の理由は以下のように記されている。 *寛文元年(1661年)、直興は幕命によって禁裏造営の助役〔デジタル版日本人名大辞典によれば女院御所造営助役〕に任じられた。しかし竣工時に京都に所在するよう命じられていたにもかかわらず、入洛が竣工後、天皇がすでに禁裏に入った後になった〔。 *病気のために参勤交代の遅滞が生じたがその届け出が遅れ、しかもその後病状を老中に報告しなかった〔。 *藩政において失政があった(封内の政事よからず)〔。 *あまつさえ好色にして無作法であるとの風聞がある〔。 貞享3年(1686年)、配所に身を置きつつ従者を使うことを許された〔。元禄15年(1702年)8月3日、金沢において死去、享年79〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一柳直興」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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