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一色 政照(いっしき まさてる)は、室町時代の武将。 == 生涯 == 元服時には8代将軍足利義政より偏諱を受け政照を名乗る。一色範光から義貫(持範の弟で一色氏の家督を継承)まで四代60年の間、一色氏が守護職を務めてきた三河国は、6代将軍足利義教(義政の父)による義貫の誅殺後、守護職を細川氏に奪われ、一色氏はその奪還を悲願としていた。国人も長年の支配により一色氏の被官となったものが多く、細川持常が守護となった直後の嘉吉元年(1441年)秋、土一揆により守護代が追放される事件が起こっている。 義貫の嫡男義直は家督を継ぐと、丹後国に加え伊勢国半国の守護職を手に入れ、更に三河・渥美郡(現愛知県豊橋市南部及び田原市全域)を奪い返し三河分郡守護となった。義直の従兄弟だった政照はその渥美郡へ分郡守護代(郡代)として入部、田原を拠点としたという。 長禄4年(1460年)8月、渥美郡赤羽根郷(田原市赤羽根町周辺か)の浜に遭難船が流れ着いたが、政照は船の積荷を掠奪しようと手勢を率いて向かった。当時、赤羽根郷は相国寺塔頭鹿苑院の領地でその役所も存在したが、政照の手勢は役所に放火、散々に乱暴をした上、積荷を奪い引き揚げた。鹿苑院の訴えでこの事件は幕府でも問題になったが、政照は幕府からの積荷返還命令を無視している(『蔭凉軒日録』長禄4年8月17日)。 応仁元年(1467年)、応仁の乱が起こると政照は渥美郡の軍勢を率いて上洛し、西軍に属して戦った。しかし、一色軍の留守中、渥美郡には東軍である伊勢氏被官の戸田宗光が進出、一帯を押さえてしまった。 文明9年(1477年)頃に政照は田原に帰還するが、戸田氏の勢いを見て争わず和解の道を選ぶ。宗光を猶子分とし、大草村(田原市大草町)に新たに邸宅を構え退隠。文明13年(1481年)4月1日病死した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一色政照」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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