翻訳と辞書
Words near each other
・ 七条敬三
・ 七条新地
・ 七条明
・ 七条祐樹
・ 七条緑道
・ 七条警察署
・ 七条警察署巡査殺害事件
・ 七条警察署襲撃事件
・ 七条通
・ 七条道場
七条院
・ 七条院大納言
・ 七条院権大夫
・ 七条院越前
・ 七条駅
・ 七林
・ 七林中学校
・ 七林小学校
・ 七林町
・ 七枚おろし


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

七条院 : ミニ英和和英辞書
七条院[ななじょう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しち]
  1. (num) seven 

七条院 ( リダイレクト:藤原殖子 ) : ウィキペディア日本語版
藤原殖子[ふじわら の しょくし]
藤原 殖子(ふじわら の しょくし(たねこ)、保元2年(1157年) - 安貞2年9月16日1228年10月15日))は、高倉天皇の妃。坊門 殖子とも。後高倉院(守貞親王)後鳥羽天皇の母。父は従三位藤原(坊門)信隆。母は藤原休子(大蔵卿藤原(持明院)通基の女)。内大臣坊門信清は同母弟。院号七条院(しちじょういん)。
== 経歴 ==
増鏡』には、はじめ兵衛督君といって中宮平徳子に仕えたとある。高倉天皇に召され、典侍任じられ、第二皇子守貞親王、第四皇子尊成親王(後鳥羽天皇)を産む。守貞親王が平家の都落ちと共に西国に連行されたことから、後鳥羽天皇即位する。建久元年(1190年従三位准三后、その後立后を経ず女院となり、七条院と呼ばれる。元久2年(1205年出家。後鳥羽天皇より水無瀬殿など多くの七条院領を譲られた。承久の乱で後鳥羽院と4人の孫(土御門院順徳院雅成親王頼仁親王)が配流となった後も、後堀河天皇(守貞親王の皇子)の祖母として京都に留まる。晩年は後高倉院に先立たれ、また後鳥羽院との再会も叶わぬまま、安貞2年(1228年)72歳で崩御。その所領(七条院領)の大半は修明門院に譲られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「藤原殖子」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.