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万見 重元(まんみ しげもと、生年不明 - 天正6年12月8日(1579年1月15日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。通称は仙千代。 == 生涯 == 神子田長門守の子と伝わる。織田信長の小姓、側近を務めた。他の大名や家臣との取り次ぎや、奉行として政務を執行した。戦場では主に検使の役を務めた。なお、通称は戦死した時まで童名の「仙千代」で記録されており、年齢的には若かったものと推測される。 重元に関する記録は主に天正6年(1578年)に集中している。1月4日、自邸を会場に名物の披露会が行われる。6月、大津長昌・矢部家定・長谷川秀一・菅屋長頼とともに神吉城攻めの検使を務める。同月、津田信澄とともに明石までの間に砦を構築、その様子を信長に伝える。7月、和泉国の淡輪氏から和泉国・紀伊国の情勢を報告され、指示を出す(『淡輪文書』)。7月22日、武蔵国の太田道誉宛ての信長黒印状に副状を発給する(『太田文書』)。8月10日、陸奥国の南部宮内少輔の使者を自邸で饗応する。8月15日、安土における相撲大会の奉行を務める。9月27日、信長の堺下向に従う。10月24日、松井友閑とともに法隆寺、東寺に段銭の納入について指示(『法隆寺文書』)、同月下旬、荒木村重謀反の噂が出た際に、松井友閑、明智光秀と共に糾問使として有岡城に派遣されたなどの記録がある。 有岡城攻めでは信長に従い出陣、堀秀政と共に甲山に避難していた住民を、戦闘の邪魔になると斬り捨てた。12月8日の総攻撃の時に、織田家の鉄砲隊を堀秀政・菅屋長頼とともに指揮して、有岡城石垣に迫り討ち死にした。小瀬甫庵の『信長記』によると、自ら塀を乗り越えようとしたところ、長刀で突き貫かれたとされる。この戦死が、記録に残る唯一の武将としての働きであった。 なお、翌年1月、安土城内の家臣屋敷の移動があり、重元の屋敷は長谷川秀一に渡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「万見重元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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