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万皇貴妃(ばんこうきひ、1429年 - 1487年)は、明の第9代皇帝である成化帝の寵妃である。 4歳で宮中に入った。はじめ宣徳帝(成化帝の祖父)の皇后(当時は皇太后)だった孫氏の宮女として仕えた後、皇太子朱見深(のちの成化帝)の侍女を務めた。土木の変で朱見深の父英宗に代わって叔父の景泰帝が即位すると、最初は朱見深を皇太子のままとしたが、後に実子の朱見済を皇太子に立てた。廃太子の朱見深は禁足となったが、万氏は献身的に支えた。20歳近く年上ではあったが、万氏は朱見深から愛された。 成化帝が即位した後も寵愛を受け、貴妃となり、皇貴妃に進んだ。万氏は宝石に異常な興味を示し、宦官で太監である汪直や梁芳らと結託して、宝石を得るために様々な賄賂などをとったという。 成化2年 (1466年)に成化帝との間に長男が生まれるが、翌年に早世した。貴妃はすでに40歳であり、以後は二度と妊娠せず、嫉妬に狂うようになり、他の妃が妊娠すると宦官を使ってことごとく堕胎していったという。成化5年(1469年)に柏賢妃の産んだ次男・朱祐極は皇太子に立てられたが成化8年(1472年)に夭折し、成化帝は壮年であったが一人の子供もいない状況となったかに思われた。しかし、宦官によって密かに難を逃れた三男に朱祐樘(後の弘治帝、1470年生)がおり、1475年に存在が明かされた。生母の紀淑妃はほどなく急死し、万貴妃による毒殺の噂が立った。万貴妃は朱祐樘も暗殺しようとしたが、皇太后の周氏(成化帝の生母)に保護されていたため失敗に終わった。万氏は1487年に心筋梗塞で死去した。享年59。恭粛端慎栄靖と諡され、天寿山に葬られた。成化帝は悲しみのあまり発病し、同年に崩御した。 == 参考文献 == * 『明史』 * 『明憲宗実録』 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「万貴妃」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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