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三保ヶ関國秋 : ミニ英和和英辞書
三保ヶ関國秋[みほがせき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [ほ]
  1. (n,vs) guarantee 
: [せき, ぜき]
 (suf) honorific added to names of makuuchi and juryo division sumo wrestlers
: [あき]
  1. (n-adv) autumn 2. fall 

三保ヶ関國秋 ( リダイレクト:増位山大志郎 ) : ウィキペディア日本語版
増位山大志郎[ますいやま だいしろう]

増位山 大志郎(ますいやま だいしろう、本名:澤田 國秋、1919年大正8年)11月3日 - 1985年(昭和60年)10月21日)は、兵庫県姫路市出身の大相撲力士。入門時は三保ヶ関部屋、のち出羽海部屋所属。最高位は東大関。身長174cm、体重116kg。得意手は突っ張り、押し、左四つ、内掛け
== 来歴 ==
1935年昭和10年)1月場所濵錦の四股名初土俵。若い頃から有望視され幕下時代には当時連勝街道をひた走っていた横綱双葉山に目をつけられ「いつかあいつに土をつけられるんじゃないか」と言われたことがあるという。稽古のときには双葉山から「おい苦手、こい」と言われて感激したという。その双葉山には1944年(昭和19年)1月場所11日目、小結の増位山は5回目の対戦で勝って恩返ししている(この場所11勝4敗の好成績)。
1940年(昭和15年)1月場所新十両1941年(昭和16年)1月場所新入幕で10勝5敗。順調に出世して1948年(昭和23年)10月場所関脇で10勝1敗、前場所優勝して綱とりの東冨士との優勝決定戦を制して初優勝、場所後大関に昇進した。大関2場所目となる1949年(昭和24年)5月場所に羽島山との同部屋決戦を制して13勝2敗で優勝した時には横綱を期待され3ツ揃いのまわしまで用意されたがこの場所で相次いで両手の小指を傷め、さらに肋間神経痛などに苦しみ連続して途中休場1950年(昭和25年)1月場所後に引退した。その後体調の回復で現役復帰を希望したことがあったが「引退相撲まで終えているのに筋が通らない」と力士会で否決されている(この時、増位山の復帰とまとめての採決にされてしまって現役復帰しそこなったのがまだプロレスラーになる前の力道山)。
大坂相撲の小部屋である三保ヶ関部屋を再興し、しばらくは弟弟子の増巳山しか関取のいない状況であったが、1960年代に大竜川が十両に昇進してから活気付き、横綱・北の湖、長男でもある大関・増位山、大関・北天佑などを育てた。自身の現役時代に日の目を見ることのなかった3ツ揃いの化粧廻しは弟子の北の湖が横綱になったことでようやくその使命を果たすことができた。定年までつとめ、部屋を実息の大関増位山に譲って隠居した。相撲協会を停年退職したためか、愛弟子北の湖の断髪式では鋏は入れたが、止め鋏を入れたのは増位山(北の湖の兄弟弟子)だった。
趣味が多彩で絵や歌がうまく特に絵は1971年(昭和46年)からは連続して二科展に入選する程の腕だった。肖像画も描いたが題材にした人が次々亡くなるのを見てこれはやめてしまったという。絵は精神を鍛えるのにも有効と考え弟子の指導にも取り入れたという。絵の趣味は北の湖や息子の増位山にも受け継がれている。
なお「増位山」は、故郷である兵庫県姫路市の山名で、もともと姫路藩お抱えの力士が名乗っており14代横綱境川も襲名したことのある、由緒ある四股名である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「増位山大志郎」の詳細全文を読む




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