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三保 松子(みほ まつこ、1894年9月8日 - 没年不詳)は、日本の女優である〔映画世界社, p.110.〕〔''三保松子''、''jlogos.com'', エア、2013年5月16日閲覧。〕〔''三保松子''、日本映画データベース、2013年5月16日閲覧。〕〔''三保松子''、''三保敦美''、日本映画情報システム、文化庁、2013年5月16日閲覧。〕〔''三保松子''、''三保敦美''、allcinema, 2013年5月16日閲覧。〕〔''三保松子''、日活データベース、2013年5月16日閲覧。〕〔''三保松子''、''三保敦美''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2013年5月16日閲覧。〕。出生名不明、結婚後の本名は守本 かつ子(もりもと かつこ)である〔〔〔映画世界社, p.156.〕。1933年(昭和9年)以降は芸名を三保 敦美(みほ あつみ)と改名する〔〔〔〔〔。 == 人物・来歴 == 1894年(明治27年)9月8日、東京府東京市(現在の東京都)に生まれる〔〔。 舞台女優以前の経歴は伝えられていないが、1917年(大正6年)に発行された『女優総まくり』には、芳町(現在の東京都中央区日本橋人形町)で芸者をしていたが、やがて絵画モデルに転向、洋画家の荻原一羊と懇意になった旨の記述がなされている〔紅鳥生, p.110-112.〕。確かに荻原とは親交があり、黒田清輝の日記にも荻原とともに2度登場するが、いずれも1912年7月19日、同年11月28日と、三保が女優になってからの時期である〔黒田, p.7, 34.〕。 満17歳となった1911年(明治44年)11月に、有楽座が同座附属の女優養成所を開設したが、これに入所し、第1期生となる〔。翌1912年(大正元年)10月11日、第一回有楽座附女優劇が行われ、ライナー・マリア・リルケ作、森鷗外訳の戯曲『家常茶飯』(, 1901年)〔、2013年5月16日閲覧。〕、山崎紫紅作の戯曲『島の女』、巖谷小波作の『女文士』、栗島狭衣作の『胡蝶』を上演、一條潮路、東花枝、園花子、岩間桜子、香村春枝、栗島すみ子、葛城文子らとともに出演し、満18歳で新劇の舞台女優としてデビューする〔〔関根, p.407.〕。同劇団は、華やかな女優劇を繰り広げた〔松竹, p.104.〕。1913年(大正2年)には同劇団が解散した後は、新派に転向し、村田正雄、井上正夫、川上貞奴ら、それぞれが主宰する各一座を転々とした〔。この時期、1915年(大正4年)には、天然色活動写真(天活)が製作した柴田善太郎・鈴木歌子主演によるサイレント映画『嵐又は春がすみ』や中野信近一派が出演した『若葉影』に出演した記録が残っている〔。 1923年(大正12年)3月20日に公開された『己が罪』(監督大洞元吾)では、横山運平を相手役に主演している〔〔〔。同作は、前年から女優を導入するために日活向島撮影所に設置された同撮影所第三部の製作によるものであったが〔、同撮影所は、同年9月1日に起きた関東大震災によって壊滅し、全機能を日活関西撮影所に移転、三保も京都に移った〔〔〔田中, p.374.〕。 すでに満32歳になった1926年(大正15年)、牧野省三のマキノ・プロダクション御室撮影所に入社、翌1927年(昭和2年)2月25日に公開された、同社と提携する賀古残夢の賀古プロダクション製作、同社配給の『生さぬ仲』(監督賀古残夢)に出演した〔。同作を映画デビュー作とする資料も存在するが〔、それ以前の出演歴は上記の通りである〔〔。時期は不明であるが、同社の俳優で同い年の守本專一(本名・守本熊太郎、1894年 - 没年不詳)と結婚しており、1928年(昭和3年)に発行された『日本映画俳優名鑑 昭和四年版』にはその旨の記述がなされている〔。1929年(昭和4年)7月25日には、牧野省三が亡くなり、同年9月にマキノ正博を核とした新体制が発表になると、三保は、マキノ智子、松浦築枝、岡島艶子、大林梅子、生野初子、櫻木梅子、河上君榮、泉清子、都賀静子、北岡よし江、住乃江田鶴子、別所ます江らとともに「俳優部女優」に名を連ねた〔1929年 マキノ・プロダクション御室撮影所所員録 、立命館大学、2013年5月16日閲覧。〕。 その後、新体制下のマキノ・プロダクションは財政が悪化し、1930年(昭和5年)12月、賃金未払いが発生してストライキが起き、翌1931年(昭和6年)1月、製作が再開されたが〔御室撮影所 、立命館大学、2013年5月16日閲覧。〕、三保は、同社の解散時まで所属し〔、同年3月13日に公開された『昭和人情噺』(監督吉野二郎)が記録に残る同社での最後の出演作となった〔〔。同年、帝国キネマ演芸に移籍、「三保 敦美」と改名したが、同社は、1931年(昭和6年)8月28日に新興キネマに改組され、三保は継続的に新会社に入社した〔〔〔。 新興キネマは、設立以来、太秦の撮影所で時代劇・現代劇をともに製作していたが、1935年(昭和10年)に現代劇を新設の東京撮影所(現在の東映東京撮影所)に切り離したため、太秦の撮影所を京都撮影所(現在の東映京都撮影所)とし、三保は京都撮影所で脇役俳優を続けた〔〔〔。1942年(昭和17年)1月10日に同社は、日活の製作部門等と合併して大映となるが、三保は同社の消滅まで在籍し、記録に残る同社での最後の出演作は、1941年(昭和16年)8月7日に公開された『花丸小鳥丸』(監督吉田信三)であった〔〔〔。その後、三保は東宝に移籍し、1943年(昭和18年)12月29日に公開された『浪曲忠臣蔵』(監督石田民三)に出演した記録が残っており、1944年(昭和19年)12月時点の同社の俳優専属者リストにもその名がみられるが〔東宝映画俳優専属者リスト 、東宝、2013年5月16日閲覧。〕、同作以降の出演歴は見当たらない〔〔〔。以降、第二次世界大戦後の消息も不明である。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三保松子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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