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三友派(さんゆうは)とは、上方落語の諸派。歴史上以下の2つが存在する。 #明治から大正まで存在した「浪花三友派」。 #1948年(昭和23年)から翌年にかけて存在した「新生浪花三友派」。 == 浪花三友派 == 1874年(明治7年)の初代桂文枝没後、桂文三との跡目相続争いに敗れた2代目桂文都は桂一門を去り、久しく絶えていた亭号「月亭」を名乗って活動していたが、1893年(明治26年)10月、兄弟弟子の2代目(「二世」と自称)曽呂利新左衛門、同門の2代目桂文團治(後の7代目桂文治)が3代目笑福亭松鶴、初代笑福亭福松らと語らい、大阪市ミナミ法善寺北側の「紅梅亭」を本拠とする「浪花三友派」を結成した。会長には2代目新左衛門が就任した。 中心人物の一人だった初代福松が陽気な芸風だった事もあり、三友派の多くの落語家は派手な滑稽話を得意としていた。また色物(軽口、物まね、剣舞、曲芸、義太夫、女講談等)も積極的に取り入れていた。さらに、当時東京落語の一大勢力を形成していた「東京寄席演芸株式会社」(通称「演芸会社」。3代目柳家小さん、初代三遊亭圓右らが中心メンバー)と提携して東京の寄席にも進出した。 拠点定席としては紅梅亭の他、平野区の「此花館」、北新地の「永楽館」、堀江の「賑江亭」などがあった。とりわけ賑江亭は、席亭の藤原重助が三友派の世話役的な存在を務めた事もあり、紅梅亭に継ぐ重要拠点であった。 1906年(明治39年)の藤原の死を機に桂派と和解。「桂・三友両派大合同興行」を行った。しかし1910年(明治43年)、上本町「富貴席」席亭の岡田政太郎が「浪花落語反対派」を旗揚げし、同年に2代目新左衛門が引退したことから次第に衰勢に向かう。三友派は桂派を吸収しながらも反対派に対抗していたが、拠点定席が吉本泰三・せい夫妻率いる花月派(吉本興行部)の買収攻勢にあい、1921年(大正10年)の岡田の死後、吉本が反対派を引き継いだ事で大勢は決し、翌1922年(大正11年)、花月派に吸収された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三友派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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