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三味線豊吉 : ミニ英和和英辞書
三味線豊吉[しゃみせん とよきち]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
三味 : [さみ]
 (n) three-stringed guitar
三味線 : [しゃみせん]
 【名詞】 1. three-stringed Japanese guitar 2. shamisen 
: [あじ]
  1. (adj-na,n) flavor 2. flavour 3. taste 

三味線豊吉 : ウィキペディア日本語版
三味線豊吉[しゃみせん とよきち]
三味線豊吉(しゃみせん とよきち 1905年明治38年)5月1日 - 1964年昭和39年)4月8日、本名・三輪トヨ)は昭和初期 - 中期にかけて活躍した歌謡曲端唄俗曲三味線奏者・放送タレント享年59。
== 略歴・その人柄と周辺 ==
東京都神田生まれ。実家は材木問屋である。
最終学歴は淡路尋常小学校6年。級長を務めるほど成績優秀であった。
幼少より芸事を好み、12歳の時に粋人の伯父の勧めにより芸で身を立てる決心をする。しかし猛稽古によって喉を潰してしまう。
尋常小学校卒業後吉原花柳界に入り芸者となる。
本人は先輩芸妓で踊りの名手だった丸子に憧れ、踊りを専門にしたいと希望したが、丸子より「あんたは(猛稽古で潰した)声も器量も良くないんだから、三味線の方が出世するんじゃないかしら」と言われ、長唄常磐津清元歌沢義太夫の三味線の修行に専念することになる。
自身の些細なミスによる失恋を機に16歳で新橋烏森の花柳界へと移り、その類まれな三味線の腕と豪放磊落な人柄で人気を集め、頭角を表す。
烏森の芸者として活躍していた豊吉の評判は創世記のラジオ局や、流行歌の売り出しに力を入れ始めたレコード会社へも届き、昭和に入って間も無い頃からまず本業(芸者)の専門分野である端唄・俗曲の伴奏を手始めにコロムビアレコードレコーディングに携わるようになり、1929年(昭和4年)頃からはラジオ放送にも出演を始めた。
その演奏は、正確な音程はもちろんのこと、邦楽的ではない複雑なリズムも全く狂うことなく弾きこなし、生涯他の追随を許さなかった。
放送やレコードによって瞬く間に豊吉の名は世間にも広まり、当時のレコード会社全てを股に掛けてレコーディングに参加するようになり、後には流行歌の伴奏としてオーケストラとの合奏も依頼されるようになる。
日本調の曲を歌う歌手の殆どの伴奏を手がけ、特に小唄勝太郎市丸赤坂小梅など『鶯芸者』と呼ばれ一世を風靡した歌手の伴奏を多く手がけていた。放送やレコードで活躍するようになってからもしばらくは芸者としての籍はあったが、1940年(昭和15年)正式に廃業し、以後三味線奏者としての活動に専念した。
戦後はその豪放な人柄を買われてNHKのラジオ番組『とんち教室』の生徒(解答者)として出演し、それまで三味線奏者として裏方的存在であった豊吉は一般聴衆にも親しまれるようになりタレントとしての地位も築く。
現役の芸者だった1924年(大正13年)から亡くなるまで新橋駅裏に住み、1954年(昭和29年)4月には3階建ての洋風住宅を建てた。
この家は後述する海外公演の折、ハリウッドで見た映画俳優ボブ・ホープの家に触発され建築したもので、終戦当時の新橋闇市などがあったため火災が多く、独身だった豊吉は住み込みの女中は居たものの、留守中の類焼による楽器や譜面の焼失・紛失を心配したためにブロック造りの家とした。
舞台でも椅子に掛けて三味線を弾いていたため稽古場を含め部屋のほとんどが洋室で、男性用のトイレが無かったという。(豊吉の話によると『男便所が無いということは、この家には男は泊めないという意思表示で、私が品行方正な証よ』とのことである)
本業の三味線では1950年(昭和25年)に『豊吉流』を創流して家元を名乗り、それまで単に『豊吉』としていた芸名を『三味線豊吉』と改める。(芸名の改名については、後に触れる)
1951年(昭和26年)1月には東海林太郎をリーダーとする一行5人の一員として海外公演にも参加しブラジルホノルルサンフランシスコニューヨークの各地を飛行機で巡演した。
また『ラ・クンパルシータ』などの洋楽曲で、三味線を主体にした編曲による和洋合奏のレコードを発売したり、オーケストラを従えてのソロリサイタルを開くなど、当時の三味線奏者としては異例の活動も行なった。
1953年(昭和28年)にはNHK紅白歌合戦に出場し、その年初出場で旧来より親しかった江利チエミの十八番『カモン・ナ・マイ・ハウス』を演奏した。
しかしその直後、乳癌を患い右の乳房の切除手術を受ける(執刀は癌研外科を主宰し、後に院長を務め『手術の神様』の異名をとった医学博士の梶谷鐶であった)。
手術後の1956年(昭和31年)には自身の半生をまとめた『豊吉 三味線随筆』を上梓した。
その後も昭和30年代、歌謡曲のヒットと民謡ブームの相乗効果で人気絶頂だった三橋美智也の膨大なオーケストラ伴奏による民謡のレコーディングに参加したり、三味線・タレント活動以外にも、自身の癌経験を語る取材を受けたり座談会に参加するなど活躍したが、1964年(昭和39年)、の再発(脊髄に転移)によって59歳の若さで逝去。
亡くなる前は癌の脊髄転移のため寝たきり状態で「治ったら俗曲や常磐津、長唄を譜面にして遺したい。口伝えでは間違って伝えられる」と意欲を燃やす一方で、病院の近所の小学生に芸の手ほどきをして「自分はもう弾けないから」と愛用の三味線をその子に持たせている。
昭和39年4月8日午後7時3分、東京都新宿区の東京医科大学病院にて死去した。
芸妓時代から幾度か恋人との同棲やとしての生活を送ったこともあったが、戸籍上は生涯独身であった。親戚筋はあり、また没交渉でも無かったので、天涯孤独というわけではなかった。
没後、その生涯は豊吉とも懇意であった後輩の江利チエミ主演によって、1968年(昭和43)年8月3日 - 10月26日までフジテレビ土曜劇場で『あの妓(こ)ちゃん』というタイトルでドラマ化された(但し、このドラマは役名を含めてかなりの脚色があり、純粋な伝記とは言えない部分がある。これは豊吉自身が何かと秘密の多い花柳界出身であったため、本人も経歴の一部を明らかにしていない部分もあったことに起因するものと思われる)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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