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三好政権(みよしせいけん)とは、天文18年(1549年)から永禄11年(1568年)まで存在した日本の武家政権である。同時代における他の戦国大名の地方政権とは大きく異なる中央政権であったと言われる〔今谷・天野監修『三好長慶』17-18頁〕。そのため、織田政権の前提となる「プレ統一政権」であると評価されることもある〔天野忠幸『戦国期三好政権の研究』清文堂出版、2010年、pp.344-345〕。 == 経歴 == === 畿内への上陸 === 三好氏は信濃守護である小笠原氏の流れを汲む一族で、阿波三好郡を本拠とし、三好之長の時代に阿波守護で細川氏分家の阿波細川家の細川成之・政之父子に仕え、次いで本家(京兆家)の管領細川政元に仕えて勢力を拡大したのが畿内進出の契機となる。 永正の錯乱による政元死後の混乱(両細川の乱)において、三好之長は阿波細川家から政元の養子に入った成之の孫・細川澄元に与して四国勢を率い、野州細川家から政元の養子となった細川高国、それを支援する大内義興(周防)、六角高頼(近江)を相手に奮戦したが(如意ヶ嶽の戦い、船岡山合戦等)、永正17年(1520年)に高国に敗れ、処刑された(等持院の戦い)。この時、息子の三好長秀など三好一族の多くが戦死、処刑された。澄元も之長の後を追うように病死、三好氏と阿波細川家はしばらく鳴りを潜めた。 之長の孫・三好元長は澄元の息子細川六郎(後の細川晴元)に仕え、大永7年(1527年)には四国勢を率いて畿内に上陸し京を奪還(桂川原の戦い)、一時、朝倉宗滴(越前)の支援を受けた高国に京都を奪われるものの、享禄4年(1531年)に浦上村宗(播磨)、そして高国を討ち取るという武功を挙げ(大物崩れ)、三好氏は細川氏を実質的に補佐する重臣にまで成長した。その過程で細川氏は室町幕府12代将軍足利義晴も追放、代わりに義晴の兄弟足利義維を擁立する堺幕府(堺公方政権)を樹立していた。しかし宿敵・高国を滅ぼした晴元は、堺公方府としての政権奪取というこれまでの方針を転換、現将軍義晴と和睦してしまう。元長はこれに反対し義維を将軍に推すが、天文元年(1532年)、同族の三好政長の讒言により晴元に誅殺された。 三好宗家は元長の嫡男である三好長慶が継ぐことは許されたが、長慶は10歳という幼少のためか三好氏は一時的に後退した。義維も享禄・天文の乱の混乱に乗じた晴元らにより阿波に移され(阿波公方)、義晴と和睦した晴元が政権を握り、晴元の側近として政長・木沢長政らが台頭した。しかし長慶は長じて智勇兼備の武将に成長し、晴元の家臣として反逆した長政の討伐(太平寺の戦い)をはじめ、高国の跡を継いだ細川氏綱や遊佐長教(河内)らとの舎利寺の戦いで多くの武功を発揮し、摂津守護代として晴元配下の最有力重臣にまで成長した。そして天文17年(1548年)に長慶は遊佐長教と和睦してその娘を正室に迎え、同時に細川氏綱と和睦し、主君であり仇でもある晴元に反旗を翻した。 天文18年(1549年)、江口の戦いにおいて晴元・政長と戦い、長慶は勝利した。政長は戦死し、晴元と彼に擁立されていた義晴の子・13代将軍足利義輝は近江に逃亡した。長慶は細川氏綱と共に上洛して京の支配権を握った。しかし氏綱は長慶の傀儡でしかなく、政元以来の細川政権は実質的に崩壊し、三好政権が成立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三好政権」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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