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三好栄子 : ミニ英和和英辞書
三好栄子[みよし えいこ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [さかえ, はえ]
 【名詞】 1. glory 2. prosperity
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

三好栄子 : ウィキペディア日本語版
三好栄子[みよし えいこ]

三好 栄子(みよし えいこ、1894年4月8日 - 1963年7月28日)は、日本の女優である。東京都出身。夫は映画プロデューサー森田信義黒澤明映画をはじめ多くの東宝映画に出演した。出生名宮田 ハル(みやた はる)、結婚後本名森田 ハル(もりた はる)。
== 略歴・人物 ==
東京市神田区神保町出身。1912年跡見高等女学校を卒業後、島村抱月が結成し、松井須磨子らが所属する芸術座の演劇学校に入校する。1915年、三好栄子の芸名を名乗り、浪花座での大阪公演『清盛と仏御前』で初舞台を踏む。トルストイ作の『復活』や『アンナ・カレニナ』などの舞台に立ち、着実にキャリアを積むが、松井須磨子と衝突して芸術座を脱退し、同じく芸術座を脱退していた沢田正二郎に誘われて、1917年新国劇結成に参加する。しかし、沢田夫人である渡瀬淳子と衝突して新国劇を脱退、芸術座に復帰を許されるが、島村抱月や松井須磨子の相次いで亡くなったことで芸術座は解散。1919年辻野良一五月信子らと大衆劇の劇団である新声劇の結成に参加し、中心女優として活躍する。
1925年、新声劇の奥役を務めていた森田信義と結婚、翌1926年、新声劇を退団し、小林一三坪内士行らが結成した宝塚国民座に入り、森田も文芸部長として共に所属する。国民座ではトップ女優として人気を得るが、同じく幹部女優だった出雲美樹子との確執からまたも脱退、以降はさまざまな劇団を渡り歩き、大阪松竹歌劇団の講師となり演技を指導する。舞台にも終戦時まで出演を続けていたが、主に脇役にまわされる事が多くなった。
第二次世界大戦後は、黒澤明監督に請われたのがきっかけで映画界入りし、1946年、黒澤の戦後第1作『わが青春に悔なし』で52歳にしてはじめて映画に出演、かつての艶姿とは打って変わって、ギョロ目と大きな口が特徴の性格女優として活躍し、以降は50年代にかけて黒澤作品をはじめ木下恵介成瀬巳喜男小津安二郎溝口健二五所平之助市川崑豊田四郎といった日本を代表する監督の作品に立て続けに起用された。また、東宝のサラリーマン喜劇では森繁久彌演じる主人公が最も恐れる社長会長(先代社長の未亡人)という役どころで多数出演し、順風満帆の役者生活を送っていた。しかし、私生活では1951年、夫の森田が完成試写を見るために自宅から撮影所へ自動車で向かう途中、急行電車と衝突し死亡する悲劇に見舞われている。1959年仲代達矢主演の『野獣死すべし』での出演を最後に病気のために引退、映画出演は13年間で110本を数える。
1963年7月28日午後5時10分、老衰で世を去った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三好栄子」の詳細全文を読む




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