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三好 義継(みよし よしつぐ)は、戦国時代の武将・大名。河内の戦国大名。三好氏本家の事実上最後の当主である。 == 生涯 == === 家督相続 === 天文18年(1549年)、三好長慶の実弟・十河一存の子として生まれる。はじめ十河 重存(そごう しげまさ)と名乗っていたが、永禄4年(1561年)4月に父が急死すると、幼少のため伯父の三好長慶は5月1日に十河家の老臣に、7月20日に乳母にそれぞれ養育することを約束した。永禄6年(1563年)8月に従兄で長慶の世子であった三好義興が早世したため、長慶の養子として迎えられ三好姓に改めた〔長江、P199、P227、今谷、P250、〕。 当時、長慶の後継者候補には他に次弟の安宅冬康やその子・信康、更に長弟・三好実休の3人の息子達がいた。長慶が三好姓で息子が3人いる実休からではなく、息子が1人しか居ない一存から養子に迎えたため、十河家は実休の次男・存保を養子に迎えなければならなくなる。何故このような不自然な養子相続関係になってでも義継が後継者に選ばれたのかは、九条家との関係が考えられる。九条家は足利義晴、足利義輝と2代に渡って室町幕府将軍の正室を出した近衛家と対立しており、これに対抗するため一存に養女を嫁していた。こうした九条家と三好一族の近い関係が、義継を後継者に押し上げたと考えられる〔天野、P191 - P193。〕。 永禄7年(1564年)6月22日、三好長逸や松永久通ら4,000人を従えて上洛し、これに大納言の広橋国光や宮内卿の清原枝賢、三位の竹内季治らを加えて23日に義輝に謁見して家督相続の許しを得ている。その後、長慶が重病のため直ちに京都を離れて河内飯盛山城に戻った。7月に長慶が死去すると、後見役の三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)の支持を受けて家督を継ぎ名実共に三好家の当主となる〔長江、P254、今谷、P252 - P253、天野、P190。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三好義継」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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