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三好 之長(みよし ゆきなが)は、戦国時代の武将。三好長慶の曽祖父(または祖父)にあたり、三好氏が畿内に進出するきっかけを作り出した名将である。 == 生涯 == === 細川讃州家に仕える === 阿波でも最有力の国侍だったという三好長之の嫡男として誕生、阿波守護であった細川氏分家・讃州家の細川成之に仕えた。諱の之長は成之の偏諱を受けたものである。応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発、成之が本家・京兆家の当主で室町幕府管領でもあった細川勝元を助けるために京都に出陣した際、之長も成之に従って渡海し初陣を飾った。文明3年(1471年)、之長は突如主家である讃州家に反抗して祖山に籠るが、阿波に在国していた成之の嫡男・政之や一宮長光に攻められて文明5年(1473年)に降伏している(『阿波志』)〔若松、P226。〕。 応仁の乱で幕府の権威が失墜し畿内ではたびたび一揆が起こり出すが、之長はそれらの一揆の人心の機微を掴んで煽動したり指導したりしたとされる。文明17年(1485年)6月11日には捕えられた盗人を奪い返そうとして勝元の子・細川政元に慰留され、8月に京都で土一揆が起こると之長は一揆の張本と目されて、8月9日に政元や侍所所司代多賀高忠らに宿所を包囲されるが、前夜に事態を察した之長は細川政之の下に逃げ込んで庇護を求め、政元らは政之の屋敷を包囲して身柄の引き渡しを求めたが、政之は拒絶あるいは之長を誅したと述べたので、政元は包囲を解いて退散した。するとこの翌日からは再び一揆を煽動し、14日には土倉を襲って質物を奪ったとまでいわれている。若年の政之への讃州家継承による家中の動揺の最中に生じた之長の一連の事件は、政之と之長に対する讃州家家臣の不満を高め、一部の家臣は勝手に阿波に下向して反乱を計画するようになった〔若松、P228 - P240。〕。 10月に不穏となった阿波へ政之と共に帰国して反乱を鎮圧、何事も無かったかのように上洛した。之長が処罰されなかった理由は成之・政之父子から貴重な人材と目されていたからであり、土一揆の構成員に大名の家臣が紛れ込んでいるのは珍しくなく、彼らを処罰すれば軍事力の低下を招く恐れがあったからである。之長は土一揆の騒動で一躍京都で名を知られるようになっていった〔長江、P10 - P12、今谷、P41 - P43。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三好之長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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