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満済(まんさい/まんぜい)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての醍醐寺(真言宗)の僧。僧としては破格の准三后を授かったことから、満済准后(まんさい じゅごう)、法身院准后(ほっしんいん じゅごう)、三宝院満済(さんぼういん -)としても知られる。安土桃山時代の義演准后と並んで醍醐寺中興の祖として知られる。 == 生涯 == 父は従一位・権大納言今小路基冬。満済は『尊卑分脈』によって基冬の孫と考えられてきた。しかし、『大日本史資料』第7編の資料によれば、満済は基冬の子であることが判明している〔大日本史料』第7編の20所収、応永21年11月22日の条。〕。母は聖護院房官法印源意の娘・白川殿〔満済が今小路基冬の子であることが判明したので、母について検討が必要である。〕。生家の今小路家は関白二条兼基の子良冬を始祖とする。 母が室町幕府3代将軍・足利義満の御台所・日野業子に仕えていた縁で義満の猶子となり、報恩院隆源のもとで得度した。その際、義満から偏諱の授与を受けて満済と号す。長じて三宝院25世門跡となり、応永2年(1395年)から永享6年(1434年)までは醍醐寺第74代座主も務め、これ以後三宝院門跡が醍醐寺座主を兼ねるのが例となった。その間東寺長者・四天王寺 別当などをも兼ね、応永16年(1409年)には大僧正の位に上る。正長元年(1428年)には三宝院門跡として初めて准三后の宣旨を授かった。 義満とその子である4代将軍義持・6代将軍義教の信任が厚く、内政・外交などの幕政に深く関与し、黒衣の宰相の異名を取った。特に籤引き将軍・義教を登場させたのは満済の功によるところが大きく、さしもの恐怖政治を行った義教も満済の建言には従うことが多かったという。幕政の中枢にありながら情勢を冷静に判断し、人情に厚い満済の態度は、同時代人から「天下の義者」(伏見宮貞成親王『看聞日記』)と賞賛された。 満済が具注暦の裏にその日の出来事を記録しておいたものが『満済准后日記』(『法身院准后記』)で、応永18年(1411年)から入滅の年までの記事があり、自筆本も伝存する(現在は醍醐寺と国立国会図書館[]蔵。共に、重要文化財)。室町殿護持僧として祈祷だけでなく、当時の政治情勢が克明に記録してあり、室町中期の極めて重要な史料となっている。その筆跡は傑僧とはほど遠い俗書である〔堀江知彦編 『日本の美術182 室町時代の書』42頁、至文堂、1981年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「満済」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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