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由利 公正(ゆり きみまさ(こうせい)〔国立国会図書館ホームページ 近代日本人の肖像 〕、文政12年11月11日(1829年12月6日) - 明治42年(1909年)4月28日)は、日本の武士(福井藩士)、政治家、実業家。子爵、麝香間祗候。旧姓は三岡。通称を石五郎、八郎。字を義由、雅号に雲軒など。 == 来歴 == 文政12年(1829年)、福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下に生まれる。嘉永6年(1853年)に家督相続。福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学ぶ。橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建する。 慶永が幕府政事総裁職に就任すると、慶永の側用人に就任する。長州征伐では、藩論を巡って対立した征伐不支持と薩摩藩や長州藩など雄藩支持の両派の提携を画策したものの、支持が得られず福井にて蟄居・謹慎処分となった。謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深める。坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが新政府への参画を求められたことへ結びついたのだと後に語っている。 明治維新後、土佐藩の福岡孝弟らと共に五箇条の御誓文の起草に参画した(公正が作成した「議事之体大意」が原文となっている)。新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当する。会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進したものの、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年(1869年)に辞職するに至った。 明治4年(1871年)に東京府知事に就任。明治5年(1872年)5月、岩倉使節団の随行に加わることになりアメリカ、ヨーロッパへ渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究。明治7年(1874年)、板垣退助や江藤新平らと共に、政府に対して民撰議院設立建白書を提出する。 明治8年(1875年)に元老院議官に任ぜられ、明治20年(1887年)に子爵に叙せられる。明治23年(1890年)には貴族院議員。同年10月20日、麝香間祗候となる〔『官報』第2195号、明治23年10月22日。〕。明治27年(1894年)3月、京都にて有隣生命保険会社の初代社長に就任した。明治42年(1909年)に没す。享年81。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「由利公正」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Yuri Kimimasa 」があります。 スポンサード リンク
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