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三島中洲 : ミニ英和和英辞書
三島中洲[みしま ちゅうしゅう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [しま]
 【名詞】 1. island 
島中 : [とうちゅう]
 (n) all over the island
: [なか]
 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among 
中洲 : [なかす]
 【名詞】 1. sandbank 2. sandbar

三島中洲 : ウィキペディア日本語版
三島中洲[みしま ちゅうしゅう]

三島 中洲(みしま ちゅうしゅう、文政13年12月9日1831年1月22日) - 大正8年(1919年5月12日)は、江戸時代末期から大正時代の漢学者東京高等師範学校教授、新治裁判所長、大審院判事、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官二松學舍大学の前身となる漢学塾二松學舍の創立者である。重野安繹川田甕江とともに明治の三大文宗の一人に数えられる。正三位大東文化協会初代理事長。
本名は毅で、字は遠叔、通称貞一郎、中洲は号。
備中三村氏の子孫を称した。
== 生涯 ==

1830年備中国窪屋郡中島村(現岡山県倉敷市中島)に生まれる。1843年備中松山藩山田方谷に、1852年からは伊勢国三重県津藩斎藤拙堂儒学を学んだ。1854年黒船来航の際は江戸に出向き、危機感を抱いて著した書物が認められ、帰郷すると藩への出仕を勧められた。翌年には再び江戸に上って昌平黌に入り、佐藤一斎安積艮斎に師事、1859年、故郷に戻り、藩校有終館で陽明学を教えた。中洲は儒学を重要視する一方、技術面では西洋の良いところを取り入れることを献策していたため、尊皇攘夷思想たちには疎んじられていた。明治維新後は政府の大審院判事に取り立てられたが、やがて政府の財政難によって退職し、自宅に漢学塾二松學舍を創設し、二松學舍大学のもとを築いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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