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三木 卓(みき たく、1935年5月13日 - )は日本の小説家、詩人、翻訳家。日本芸術院会員。 == 来歴・人物 == 本名、冨田三樹。東京に生まれるが、満洲日日新聞などの新聞記者だった父に連れられて一家で1937年(昭和12年)から1943年の2歳から小学校2年までの6年間、大連に移住して過ごす。かつて実業之日本社で児童文学の編集者をしていた父に与えられた少年少女文学集など多くの本に大きな影響を受ける。しかし敗戦で引き揚げを余儀なくされ、帰国途中で父、祖母らを亡くす。この辺りの情景は「砲撃のあとで」「ほろびた国の旅」に詳しい。 帰国後は父の故郷静岡県御前崎近くに育ち、母子家庭の貧困と小児麻痺による左足の障害に苦しみながら、静岡県立静岡高等学校を経て、1955年早稲田大学第一文学部露文科に入り卒業(この少年期の記憶を辿った連作が「はるかな町」である)。 河出書房就職の後、江東区に居を構える。当時あかね書房編集部の山下明生と知り合い、親交を深める。詩を書き始め、ロシア文学の翻訳を手がけるようになる。1967年に詩集『東京午前三時』でH氏賞、1970年に詩集『わがキディ・ランド』で高見順賞受賞。 その後、小説も書き始め、「ミッドワイフの家」で芥川賞候補になり、1973年に「鶸」で芥川賞受賞し(連作『砲撃のあとで』のうちの一編)、作家として歩み始める。中でも破傷風にかかった娘を描写した初期の中編『震える舌』(1975年)は高く評価され、野村芳太郎によって映画化(1980年)された。 1980年代からは三浦半島のリゾートマンション(横須賀市芦名)に住み、小説を書くようになる(「海辺で」)。1984年に児童文学『ぽたぽた』で野間児童文芸賞、1986年に小説『馭者の秋』で平林たい子文学賞、1989年に小説『小噺集』で芸術選奨文部大臣賞を受賞する。 1994年、心筋梗塞のため死にかけたことから鎌倉市雪ノ下に居を移し、このときの臨死記録をノンフィクション『生還の記』として発表する。その後、1997年に児童文学『イヌのヒロシ』で路傍の石文学賞、同年に小説『路地』で谷崎潤一郎賞、2000年に小説『裸足と貝殻』で読売文学賞、2006年に『北原白秋』で毎日芸術賞、藤村記念歴程賞、蓮如賞をそれぞれ受賞する。2012年に詩人だった妻福井桂子の思い出を綴った私小説『K』を上梓し、伊藤整文学賞を受賞。 また、1999年には紫綬褒章受章。2007年に文学諸分野での長年の功績が認められ、日本芸術院賞・恩賜賞を受賞、日本芸術院会員となり、2011年春の叙勲で旭日中綬章を授与される。 英米、ロシアの児童文学の翻訳は数多く、特にアーノルド・ローベルのシリーズはロングセラーとなっている。 三木文学の特徴は生々しい人物や自然描写にある(「かれらが走りぬけた日」など)。異性に固執する点は谷崎潤一郎に通じるが、谷崎と違ってその視線の背後には死が滞在している。 「系図」という詩は、高田渡により作曲、歌われ、ボンゾズがカヴァーしている。 テストや問題集などにおいて著作者の許諾なく著作物が使用されることには否定的で、日本は文化の後進国であり検印制度を復活すべきだと主張している〔三木卓「【会員の声】 教育出版社には検印制度の復活を望む」JVCAニュース創刊号、2003年12月22日、アーカイブ 、2015年5月2日閲覧 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三木卓」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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