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三木 武夫(みき たけお、1907年(明治40年)3月17日 - 1988年(昭和63年)11月14日)は、徳島県出身の日本の政治家である。 三木は明治大学卒業直後、林内閣の食い逃げ解散によって行われた1937年(昭和12年)の総選挙で、当時最年少記録の30歳で衆議院議員に初当選した。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会非推薦候補として当選を果たし、1988年(昭和63年)に議員在職中に死去するまで当選19回、51年あまりに亘って衆議院議員を務める。 戦後は協同民主党、国民協同党、国民民主党、改進党、日本民主党と所属政党を変え、1955年(昭和30年)の保守合同後は自由民主党に所属する。三木は所属したほとんどの政党で党首ないし幹事長、書記長といった党幹部を歴任した。 また逓信大臣(第51代)、運輸大臣(第17代・第18代)、経済企画庁長官(第6代)、科学技術庁長官(第5代・第10代)。通商産業大臣(第27代)、外務大臣(第95・96代)、副総理(第1次田中角榮内閣・第2次田中角榮内閣)、環境庁長官(第4代)と閣僚を歴任した後、内閣総理大臣(第66代)を務める。〔(財)新技術開発財団の会長を務める。専務理事は内村信行。同財団は1968年12月12日、市村清の寄付で設立。東京都大田区北馬込1-26-10 :『日本の民間財団と企業寄付-国際交流・協力活動の概況』日本国際交流センター 1985年12月 P.83.〕 死後、正二位と大勲位を追贈され、また衆議院議員勤続50年と憲政に対する功績によって衆議院名誉議員の称号が与えられ、衆議院正面玄関に胸像が建立された。 == 来歴・人物 == 1907年(明治40年)3月17日、徳島県板野郡御所村吉田字芝生(後の土成町、現・阿波市)に三木久吉、タカノの長男として生まれた。三木は父が33歳、母が38歳の時に生まれた一人っ子として、両親の愛を一身に集めて成長する。御所村尋常高等小学校を卒業後、三木は徳島県立商業学校に入学する。徳島県立商業学校時代以降、三木は弁論部で活躍するようになった。しかし1925年(大正14年)の7月、徳島県立商業学校に持ち上がったバザーの会計不正問題で、三木は校長の追放運動を主導した。三木は会計不正追及問題を扇動した責任を問われ退学処分となる。失意の三木は徳島を離れて私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に編入し、そこで商業学校を卒業する。 商業学校を卒業した三木は、旧制明治大学専門部商科に進学する。明治大学に進学した三木は学生生活を満喫し、特に雄弁部で大活躍する。雄弁部の活動で三木は樺太、朝鮮、台湾を含む当時の日本全土を巡り、見聞を広めた。明治大学専門部商科を卒業した三木は、明治大学法学部に進学する。明治大学法学部に進学した三木は、アメリカ、ヨーロッパへの遊学を行う。遊学中三木はアメリカやイギリスで自由主義への共感と、イタリアやドイツ、そしてソ連では左右の全体主義への警戒感を身につけた。欧米遊学からの帰国後、更に三木は4年間に及ぶアメリカ留学を行った。 アメリカ留学から帰国後、1937年(昭和12年)3月、三木は明治大学法学部を卒業する。その直後に行われた食い逃げ解散と呼ばれる突然の衆議院解散に際し、三木は衆議院選に立候補し、政治浄化を訴えて当時最年少記録の満30歳で当選を果たす。衆議院議員となった三木は緊張感が高まりつつあった日米関係を憂慮し、日米友好に尽力する。そして1940年(昭和15年)には新興財閥であった森コンツェルン総帥の森矗昶の次女である睦子と結婚する。 1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では、翼賛政治体制協議会の非推薦となり、様々な選挙妨害を受けながらも当選を果たす。戦後、国会議員としての戦争責任を感じた三木は政治家引退を考えるが、アメリカのことをよく知る三木が必要とされる時代になると妻の睦子が説得し、政治家を続けることになった。三木は公職追放の危機を乗り越え、1946年(昭和21年)からは、協同民主党、国民協同党、国民民主党、改進党と所属政党を変えていくが、いずれの政党でも書記長、中央委員長、幹事長という党首、幹部クラスを歴任する。特に国民協同党時代には片山内閣の逓信大臣となり初入閣を果たし、芦田内閣総辞職後には連立与党の党首として首相候補の一人になる。また小会派を渡り歩きながら多数派間の対立を巧みに突いて自らの政治的影響力を保持し続ける三木の政治姿勢について、バルカン政治家と呼ばれるようになった。三木のこのような政治姿勢は、自民党所属後も中小派閥の三木派を率いながら継続されることになる。 三木は改進党の次に日本民主党に所属する。日本民主党時代、三木は第1次鳩山一郎内閣、第2次鳩山一郎内閣で運輸相を務める。三木は保守合同に反対したものの最終的には合同に参加し、自由民主党に所属するようになる。自民党成立後、1956年(昭和31年)の自民党総裁選挙で石橋湛山の勝利に貢献し、幹事長に就任する。なお、この時の総裁選を機会に自民党には派閥が形成されるようになり、三木も派閥の領袖となる。 石橋は病のために2ヶ月で退陣するが、後を継いだ岸政権でも幹事長、政調会長、第2次岸内閣では経済企画庁長官、科学技術庁長官と要職を歴任する。しかし岸の強権的な政治手法に反発し、1958年(昭和33年)末には閣僚を辞任し、1960年(昭和35年)の安保改定時には強行採決に反対し、採決時に退席する。岸政権後半から池田政権にかけて、一時三木は無役となるが、1961年(昭和36年)には科学技術庁長官、原子力委員長として入閣し、その後池田総裁に請われて自民党の近代化を進めるための自民党組織調査会会長に就任し、1963年(昭和38年)10月には三木答申を池田総裁に提出する。答申では派閥解消など自民党の改革案が提案されていたが、ほとんど実現しなかった。 三木は自民党組織調査会会長として活動中の1963年(昭和38年)7月に政調会長となり、1964年(昭和39年)7月の池田三選時には池田を支持し、幹事長となる。しかし喉頭ガンであった池田は11月には退陣し、後継の佐藤政権下でも幹事長に留任し、更に通産相、外相と、佐藤政権でも要職を歴任する。通産相、外相として東南アジアとの関係強化などに活躍するが、1968年(昭和43年)、佐藤三選に反対して外相を辞任し、総裁選に出馬する。この時、三木は沖縄の核抜き本土並み復帰を主張した。2年後の1970年(昭和45年)の総裁選では、党内の大勢が佐藤四選になびく中、敢然と総裁選に立候補し、全国を遊説して信念の政治家像を国民に植え付けることに成功する。 1972年(昭和47年)の総裁選は、田中、福田、大平、三木の中で最下位の4位と惨敗するが、日中国交回復に取り組むことを条件として決選投票で田中を支持する約束を取り決め、田中政権の成立に貢献した。田中政権では副総理、その後副総理兼環境庁長官となるが、1974年(昭和49年)7月に行われた第10回参議院議員通常選挙で露になった田中の金権体質、特に三木の故郷である徳島県選挙区で繰り広げられた阿波戦争を見て、党改革に一兵卒として取り組むとして副総理兼環境庁長官を辞任した。副総理兼環境庁長官の辞任後、三木は自民党の党近代化と選挙制度改革など、政治改革に係わる活動を活発に行っていた。このような中で田中の金脈問題がクローズアップされ、世論からの激しい批判の中、田中政権は瓦解する。自民党の中にあって、「議会の子」、「クリーン三木」と評価されるようになっていた三木は、椎名悦三郎自民党副総裁の椎名裁定により政権の座に就くことになった。 田中の金脈問題での辞任後に、緊急避難的な形で政権の座に就いた三木であったが、自民党内からの期待と異なり、政治資金規正法改正、独禁法改正など、自民党の支持基盤を揺るがす改革に着手する。三木のやり方に自民党内から反発が高まり、三木は終戦記念日に靖国神社を参拝するなど、党内からの批判に対して宥和策を取るようになった。しかしこの宥和策は世論からは不評であり、三木内閣の支持率は低下して政権は危機に立たされる。 三木政権が危機に立たされていた1976年(昭和51年)2月、ロッキード事件が発覚する。三木は事件の徹底究明を進めたが、三木の姿勢に自民党内から不安が高まり、椎名副総裁を中心とする三木おろしの動きが表面化する。しかしこの時の三木おろしは世論の猛反発を受けて頓挫する。7月の田中角栄前首相の逮捕後は、今度は田中派が三木おろしの中核を担うようになり、三木おろしに賛成する反対派は党内の三分の二を越え、三木は政権の危機に直面する。三木は反対派閣僚を全員罷免した上での衆議院解散総選挙を検討するが、結局ぎりぎりのところで反対派との妥協が成立したため、解散総選挙は断念し、内閣改造が行われた。結局1976年(昭和51年)12月、任期満了での衆議院選挙が行われたが、自民党は三木支持派、反三木派の事実上の分裂選挙となって惨敗し、三木は責任を取って首相を辞任する。 三木は福田政権、そして党内抗争が激化した大平政権下でも三木派を率い、活動を続けたが、1980年(昭和55年)の衆参同日選挙後、派閥の領袖を降り、三木派は河本派となる。その後も三木は政治浄化に執念を燃やし続けてきたが、1986年(昭和61年)6月に病に倒れ、1987年(昭和62年)4月の衆議院議員在職50周年も病床で迎え、1988年(昭和63年)11月14日、81歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三木武夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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