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三木淳 : ミニ英和和英辞書
三木淳[みき じゅん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [き]
 【名詞】 1. tree 2. wood 3. timber 

三木淳 : ウィキペディア日本語版
三木淳[みき じゅん]
三木淳(みき じゅん、1919年大正8年)9月14日 - 1992年平成4年)2月22日)は日本写真家。命日は「白梅忌」と呼ばれる。
吉田茂の葉巻をくわえた姿のスナップなどを撮ったことで知られる報道写真家。1940年代末から国際的なフォトジャーナリストとして活躍。その作品は雑誌LIFEに掲載され、日本の報道写真の基礎を築いた。「大賀ハス」のカラー写真は、LIFE誌の週刊版(1952年11月3日号)に「世界最古の花・生命の復活」として世界に発信された。また三木が機材にニコンを使用していたことから、ニコンが海外に知られるきっかけともなった。
ニッコールクラブ会長、日本大学芸術学部教授、日本写真家協会会長、日本写真作家協会会長などを務めた。
1999年には彼の功績を讃え、「三木淳賞」(ニコンサロンで行われる35歳以下の公募展Juna 21の最優秀人物に与えられる)が設立された。
==経歴==

*1919年 岡山県児島郡藤戸村(現・倉敷市藤戸町)に生まれる。
*1943年 慶應義塾大学経済学部卒業。在学中から国際報道工芸(1939年名取洋之助が創設した第二次日本工房の後身)にて亀倉雄策土門拳に師事。同郷の写真家・写真誌編集者の石津良介に土門を紹介し、土門のアルス写真文化賞受賞のきっかけをつくる。卒業後、貿易会社に入社。その後、戦争のため陸軍に入隊。
*1947年 名取の誘いを受け、友人の写真家稲村隆正(たかまさ)(1923―89)とともにサンニュースフォトス社に入社、極東軍事裁判の撮影を担当。グラフ雑誌『週刊サンニュース』に東京の停電の様子、銀座、職業安定所、常磐炭鉱などを取材したドキュメントを多数発表。
*1948年 INP通信社に移籍。
*1949年 シベリア抑留者の舞鶴港上陸をルポした作品「日本の赤色部隊 祖国に帰る」が米『LIFE』誌に掲載され、タイム・ライフ社入社のきっかけに。その後「マッカーサー元帥東京を去る」「板門店の捕虜交換」「日本の皇太子」「暴動メーデー」などの作品を次々と発表。
*1950年 木村伊兵衛、土門拳を顧問にむかえ「集団フォト」を結成(両者のわだかまりを解消するきっかけにもなる)。アンリ・カルティエ=ブレッソンマーガレット・バーク=ホワイトの生写真を日本に紹介した。
*1951年 サンフランシスコ講和条約調印当時に首相吉田茂を撮影し「葉巻をくわえた吉田首相」を同誌に発表、世界的な反響を呼ぶ(9月10日号)。
*1954年 小野隆弘撮影による岡山県西大寺会陽(裸祭り)の写真を『LIFE』に紹介。またタイム・ライフ社の招きで渡米し米国内を取材。
*1957年 タイム・ライフ社を退社しフリーに。58年から翌年にかけ中南米各国を取材撮影。
*1960年 雑誌『日本』にルポルタージュ「麻薬を捜せ」を発表、講談社写真賞受賞。
*1962年 個展『メキシコ写真展 ―新興国の表情』(高島屋、東京・日本橋)開催、日本写真協会年度賞受賞。
*1967年 『三木淳写真集 サンバ・サンバ・ブラジル 』刊行
*1977年 日本大学芸術学部写真学科教授に就任して以降、後進の指導にも力を注ぐ。
*1983年 国内初の写真専門美術館、土門拳記念館(山形県酒田市)の初代館長に就任。
*1992年 逝去、享年72。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三木淳」の詳細全文を読む




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