翻訳と辞書
Words near each other
・ 三杉淳
・ 三杉磯
・ 三杉磯吉明
・ 三杉磯善七
・ 三杉磯拓也
・ 三杉磯秀人
・ 三杉磯豊秀
・ 三杉礒善七
・ 三杉豊高暁
・ 三杉里
三杉里公似
・ 三杉隆敏
・ 三村
・ 三村 (茨城県)
・ 三村&有吉特番
・ 三村ゆうな
・ 三村マサカズ
・ 三村レニ
・ 三村ロンド
・ 三村京子


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

三杉里公似 : ミニ英和和英辞書
三杉里公似[みすぎさと こうじ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [すぎ]
 【名詞】 1. Japanese cedar 2. cryptomeria japonica 
: [り]
 【名詞】 1. ri (old measure) 2. 2. 44 miles 
: [こう]
  1. (n,suf) prince 2. lord 3. duke 4. public 5. daimyo 6. companion 7. subordinate
: [に]
 (suf) takes after (his mother)

三杉里公似 : ウィキペディア日本語版
三杉里公似[みすぎさと こうじ]

三杉里 公似(みすぎさと こうじ、1962年7月1日- )は、滋賀県甲賀郡信楽町(現・滋賀県甲賀市)出身で、1980年代から1990年代にかけて活躍した大相撲力士。現役時代は、二子山部屋(現・貴乃花部屋)に所属した。最高位は東小結1992年9月場所)。本名は岡本 公似(おかもとこうじ)。現役時代の体格は185cm、159kg。趣味は映画、音楽鑑賞、ゴルフ格闘技観戦。得意手は右四つ、寄り、上手投げ、突き落とし。愛称は「おかもっちゃん」・「おかもん」。血液型はA型。
== 来歴 ==
信楽焼で有名な滋賀県甲賀郡信楽町の出身で、陶芸家もよく出入りする陶芸燃料商の三男として産まれる。そんな環境から陶芸家を目指したこともあり、地元信楽中学校から信楽工業高校(現・信楽高校窯業科に進学する。
高校入学と同時にレスリング部に入部するとグレコローマンスタイルで1年生でインターハイ国体に出場するほどの強豪になり、オリンピック出場も夢ではないと言われていたが、父親の知人である元幕下力士の柴田が二子山部屋所属の12代荒磯(元小結二子岳)と友人だった関係から大相撲にスカウトされた。母は最後まで角界入りに反対していたが、高校を1年で中退して二子山部屋に入門した。
1979年1月場所にて、16歳で初土俵。当時は番付外制度があり、番付外同士で正規の取組を行った後に、次の同年3月場所に於いて本名でもある「岡本」の四股名序ノ口に付いた。入門後すぐに、半年間通う相撲教習所では卒業時に北尾(後の横綱双羽黒)と共に優秀賞を受賞した。
1980年11月場所より、同部屋の兄弟子で2代目・若乃花の前名である「若三杉」より「三杉」と、故郷である「信楽の里」の「里」から3字を取った「三杉里」に改名(横綱隆の里と、若三杉の名から取ったという説もある)。
以来、順調に番付を上げていき、1984年7月場所で同学年の源氏山(寺尾から改名、翌場所に元に戻す)と共に21歳で新十両へ昇進した。しかし、その7月場所では源氏山は7勝8敗で翌9月場所も十両に留まったのに対し、三杉里は4勝11敗と大きく負け越して幕下へ陥落と明暗を分けた。
1986年7月場所にて再び十両へ昇進し、その7月場所では西十両12枚目の地位で11勝4敗と大きく勝ち越し、初の十両優勝を果たした。「駆けつけた信楽の応援団に、やっと恩返しができた」とこの時の十両優勝インタビューで語っている。その後も右四つ左上手を取る型を固めていき、1988年5月場所で25歳で新入幕を果たした。
入幕してからも徹底した四つ相撲を見せ、1989年1月場所では新三役となる西小結へ昇進し、その後も長らく幕内上位に定着し続けた。当時の貴花田には分が良く「貴花田キラー」と評され、貴花田が初優勝するまで初顔から5連勝している。また、うっちゃり突き落とし巻き落としなどの土俵際の逆転技「三杉里マジック」で観客を楽しませた。1992年5月場所では東前頭筆頭の位置で小錦霧島の両大関関脇栃乃和歌小結安芸ノ島水戸泉武蔵丸を倒す活躍で10勝5敗と勝ち越して敢闘賞を受賞し、これが現役時に於ける唯一の三賞受賞となった。同年9月場所では、自己最高位となる東小結へ昇進している。地味ながらも持ち技が多く、稽古にも熱心で体型が崩れることがなかった〔1990年代中盤には身長・体重が全幕内力士の平均値と同じであった。〕。
30歳を越しても幕内上位に定着していたものの、1996年7月場所でに勝利して通算6個目となる金星を挙げた後からは、左肘の故障が悪化して上手を取っても力が出なくなり、加えて右肘も悪くなった影響により急に成績が落ちて番付が降下した。38場所ぶりの前頭二桁台となる東前頭14枚目の位置まで番付を下げた翌9月場所でも7勝8敗と負け越し、翌11月場所では十両へ陥落した。その11月場所では勝ち越して1場所で再入幕を果たしたものの、1997年3月場所では4勝11敗と大きく負け越して翌5月場所において再び十両へ陥落した。
以降は幕内へ復帰することなく十両で相撲を取り続けたが、1998年7月場所では東十両13枚目の位置で9日目に負け越しが決定し、幕下への陥落が決定的となった。師匠である11代二子山(元大関・貴ノ花)は幕下では相撲を取らせないという方針を持っていたものの、自身は通算700勝という目標があったのでそれを達成するまで取るということで合意してその時点での引退発表はせず、12日目に通算700勝を達成した後、13日目に引退発表を行った。
1998年7月場所限りで引退した三杉里は同年の5月に制定された準年寄制度を利用した初の人物となり、準年寄・三杉里として二子山部屋の部屋付き親方となった。1999年1月31日、両国国技館において断髪式を行った。2000年7月には年寄・17代浜風を襲名し、間垣部屋へ移籍した。
NHK大相撲解説では、20代錣山(元関脇・寺尾)との絶妙な掛け合いを見せていた。2006年11月、年寄名跡を間垣部屋の五城楼に譲渡して日本相撲協会を退職した。
日本相撲協会を退職した後は鎌倉にてちゃんこ店を経営していたが、その後、知人が理事長を務める整体の専門学校に44歳で入学して2年間学習し、漢方医学を基にした中国伝統医学を学ぶために中国へも留学した後、2008年10月に東京都中野区に「健康回復館 三杉里のごっつハンド」を開業した。現在は「ごっつハンド・中野部屋」を経営するほか、整体の技術を教える「ごっつハンド整体塾」や「伝統四股普及会」と称しての四股の基本を教える講座も開講している。また、錣山部屋の師範代も務めている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三杉里公似」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.