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三条 実親(さんじょう さねちか)は鎌倉時代初期から中期にかけての公卿。従一位右大臣。白川、又は後三条と号す。太政大臣三条公房の長男。 == 経歴 == 建久10年(1199年)従五位下に叙せられる。建仁2年(1202年)従五位上、建仁3年(1203年)侍従に任ぜられ、建仁4年(1204年)正五位下に叙せられる。 元久2年(1205年)右近衛少将に任ぜられる。元久3年(1206年)従四位下・信濃権介に叙任され、建永2年(1207年)従四位上に昇叙。承元2年12月(1209年1月)には右近衛中将に転じ、承元3年(1209年)正四位下、承元5年(1211年)従三位に叙せられ公卿に列した。建暦2年(1212年)越前権守を兼ね、建保2年(1214年)正三位に進む。 建保5年(1217年)土佐権守を兼任。建保7年(1219年)権中納言に任ぜられ、中宮権大夫を兼帯、承久2年(1220年)従二位に叙せられる。承久4年(1222年)正二位に昇叙。元仁元年12月(1225年2月)には中納言に転じ、元仁2年12月(1226年1月)さらに大納言に任ぜられた。しかし、貞永元年(1232年)10月より籠居している〔序列と年齢が下であった大炊御門家嗣が右近衛大将に任ぜられたためと考えられる。実親はついに近衛大将に任ぜられなかったのである。なお、同時期に九条基家と徳大寺実基も籠居している。西園寺家台頭、五摂家分立の時期にあって、官位昇進の順序をめぐって不満が生じていたと考えられる。〕。 嘉禎4年(1238年)右大臣に任命される。仁治元年(1240年)従一位に叙せられるが、翌日上表して辞退した。仁治3年(1242年)正月4日、勘解由小路経光が叙位議にて執筆を務めることになった際、経光は実親の許に参って作法を習う〔『民経記』仁治3年正月5日条〕など、経光は数々実親を訪ねており、親交があった。建長5年(1253年)出家、弘長3年(1263年)薨去。享年69。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三条実親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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