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三枚橋城(さんまいばしじょう)は、駿河国沼津(現在の静岡県沼津市大手町)にかつてあった日本の城である。 ==概要== 天正7年(1579年)武田勝頼により築城された。永禄12年(1569年)、甲斐武田氏と相模北条氏との甲相同盟が破綻し、駿河・伊豆国境付近が緊張した際に北条氏により砦が築かれていたが、その跡地に建設された。 その後、甲相同盟は再締結されるが、天正6年(1578年)3月に越後国上杉氏の家督争いである御館の乱の影響で甲相同盟は再び崩壊し、敵対することになった北条氏に対する、武田氏の駿河・伊豆国境の最前線の拠点である。城将は小笠原信嶺、高坂源五郎(春日昌元)、曽根昌長、堀内政豊等。 武田氏滅亡の直前の天正10年(1582年)2月29日、近傍の武田氏の戸倉城が北条氏の攻撃により落城したことを受け、守備兵が動揺し自落した。ただし、開城した三枚橋城に入ったのは駿河から侵攻してきた三河国の徳川氏であり、松平忠次が城主として入城した〔柴裕之「徳川氏の駿河河東二郡支配と松井忠次」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年 ISBN 978-4-87294-884-4 なお、柴は(松井)松平忠次が家康の偏諱を与えられて康親に改名したことを否定する立場に立つ。〕。 天正18年(1590年)3月津軽為信は小田原征伐で東下する途上の豊臣秀吉にこの城で謁見し所領を安堵される。 慶長6年(1601年)に大久保忠佐が城主となり沼津藩主となったが、慶長18年(1613年)忠佐死去後、跡継ぎのいなかった沼津藩大久保家は断絶となり、翌慶長19年(1614年)に廃城となる。 旧国道1号沿いに位置していたが、今日では当時の姿を偲ばせるものはほとんどない。但し石垣等の遺構が見つかっていることから、武田氏滅亡後も整備が続けられ使用されたようである。 なお、同地付近での建築工事時に見つかった石垣用の石が、沼津リバーサイドホテル前、アゴラ沼津前、沼津城本丸址で見ることができる。 画像:Numazu-sanmaijou-castle-ishigaki-tokyuhotel.jpg|沼津リバーサイドホテル前の石垣(復元) 画像:Numazu-sanmaijou-castle-ishigaki-shizuokabank.jpg|アゴラ沼津前の石垣(復元) 画像:Numazujou-castle-honmaruato.jpg|沼津城本丸址。周囲の石が、付近で工事の際に発見された、三枚橋城の石垣に使われていたもの。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三枚橋城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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