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三根山継司 : ミニ英和和英辞書
三根山継司[み]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [こん, ね]
 【名詞】 1. root 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 

三根山継司 ( リダイレクト:三根山隆司 ) : ウィキペディア日本語版
三根山隆司[みつねやま たかし]

三根山 隆司(みつねやま たかし、1922年2月7日 - 1989年8月15日)は、東京府北豊島郡南千住町(現:東京都荒川区)出身の元大相撲力士。本名は嶋村 嶋一(しまむら しまかず)。
== 来歴 ==
1922年2月7日東京府北豊島郡南千住町(現:東京都荒川区)で八百屋を営む一家に長男として生まれる。尋常小学校を卒業してからは嫌いながらも家業を手伝い、野菜を満載した荷車を曳いていたが、体格が大きいために梶棒の中に入れないので外から曳いていた。1936年のある日に清水川元吉磐石熊太郎の一行が近所へ巡業に来た時に見に行くと、先に巡業会場へ到着していた高島から熱心に勧誘されたことで高島部屋へ入門した。
1937年5月場所に初土俵を踏むと、序二段で一度負け越しただけで順調に昇進し、吉葉山潤之輔輝昇勝彦と共に「高島三羽烏」として注目され続けた。1944年1月場所に新入幕を果たすとこの場所を11勝4敗の好成績を挙げ、同年5月場所は照國萬藏安藝ノ海節男から1つずつ金星を奪うなど、「大物食い」として評判になった。同年11月場所では再び照國から金星を奪って「照國キラー」ぶりを発揮すると、全勝優勝を目指した若瀬川泰二に黒星を付けて優勝の望みを打ち砕くなど、節目節目で活躍した。
その後は幕内上位から三役へ定着し、殊勲賞を5度受賞するなど「大物食い」として上位陣を散々苦しめていたが、第二次世界大戦の勤労奉仕と食糧不足から体重が40kg以上も落ち、力を存分に発揮できなかった。戦後は前田山英五郎から金星を奪って活躍し始めると、1951年に高島が亡くなったことで巴潟誠一が部屋を継承した頃から「疾風枯葉を巻く」と形容された寄りに磨きがかかり、1953年5月場所には関脇で12勝3敗の好成績を挙げ、場所後の大関昇進を決定させた。
1954年3月場所には12勝3敗ながら幕内最高優勝を遂げ、新横綱にも関わらず全休した吉葉山の穴を埋める活躍を見せたが、この頃から坐骨神経痛栄養失調などの病気や骨折腰痛などのケガに悩まされるようになる。途中休場で角番を迎えた1955年5月場所は6勝9敗で負け越したことで大関からついに陥落したのに続いて、同年9月場所は坐骨神経痛で全休し、その後は三役に復帰できなかった。それでも引退せずに約4年の長きに渡って前頭に定着し、鏡里喜代治千代の山雅信から金星を奪うなど、往年の「大物食い」の活躍を見せた。
1960年1月場所を最後に現役を引退し、年寄・熊ヶ谷を襲名した。最後の取組として同場所8日目に新入幕の大鵬幸喜との対戦が組まれたが、引退届を提出して大鵬に同日の不戦勝を与えた。引退後は熊ヶ谷部屋を創設して独立。1961年5月に巴潟が友綱に名跡変更したため、三根山が新たに高島を襲名し、出身の「高島部屋」の名称を引き継いだ。育成は弟子に付きっ切りで指導するほど熱心で、大受久晃を大関に、高望山大造を前頭まで育てたが、1982年に体調不良から部屋を閉鎖して熊ヶ谷部屋(高島部屋時代の後輩の芳野嶺元志が創設)へ弟子を移籍させ、1985年には日本相撲協会を廃業した。
最晩年は現役時代から続く数多くの病気・ケガの悪化によって都内の病院へ入院し、1989年8月15日に心筋梗塞で死去、。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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