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三橋 鑑一郎(みはし かんいちろう、1841年(天保12年)3月27日 - 1909年(明治42年)3月15日)は、幕末・明治期の剣術家(武蔵流)。大日本武徳会第1回精錬証及び範士。「蟹の三橋」の異名をとった二刀流の遣い手。 == 経歴 == 三河国岡崎藩・東軍流指南役佐藤次太夫の子として生まれ、東軍流を学ぶ。 18歳で三橋家の養子となり、同家師範新宮弥次兵衛に武蔵流を学ぶ。 21歳で鏡心明智流士学館(桃井春蔵)に入門。 1865年(慶応元年)、25歳で東軍流と武蔵流の免許を授けられる。岡崎藩の天才剣士と謳われ、藩主本多氏から度々賞詞を授与される。 廃藩後、名古屋の撃剣興行に参加。 1880年(明治13年)、名古屋監獄に勤務。 1883年(明治16年)、警視庁に任官し、撃剣世話掛を務める。 1895年(明治28年)、大日本武徳会第1回武徳祭大演武会で高山峰三郎に勝利。同会から精錬証を授与される。 1899年(明治32年)、宮内省御用掛に転じ、主殿寮京都出張所で剣術を指南。大日本武徳会本部教授を兼任する。 1903年(明治36年)、大日本武徳会から第1回の範士号を授与される。 1906年(明治39年)、渡辺昇ら第1回の範士と協議して大日本武徳会剣術形(大日本帝国剣道形の前身)を制定。 1909年(明治42年)、京都で死去。 養子の三橋秀三(剣道範士)は、東京高等師範学校教授、静岡大学教授、岐阜大学名誉教授等を歴任した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三橋鑑一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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