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三沢 秀次(みさわ ひでつぐ、生年不詳 - 天正10年6月13日(1582年7月2日)?)は、戦国時代の武将。少兵衛尉。 == 生涯 == 織田信長の重臣、明智光秀の与力か。明智光秀の重臣、側近とも。諱は秀儀とも〔『戦国・織豊期の徳政』<史料G>p61、下村信博著、吉川弘文館〕。 天正元年(1573年)8月、朝倉氏を滅ぼした信長は羽柴秀吉・明智光秀・滝川一益の3名を越前仕置きの為に派遣したが、仕置きを済ませた3人が越前を去ると織田家の代官として北ノ庄にとどめ置かれたのが秀次・木下祐久・津田元嘉の3名であった〔『朝倉記』など〕。3名はそれぞれ仕置きを担当した明智・羽柴・滝川の代官であったと比定され、秀次は光秀の代官として越前に残った。 当時、越前の守護代には桂田長俊(前波吉継)が任じられていたが、越前の政務の実態は信長の朱印状に基づいて北ノ庄の3人の代官が政務を執行しており、寺領の安堵や年貢・諸公事を収納する事の認可を3代官の連署で許可していたり〔中道院文書・橋本文書〕と、越前支配の実権は3代官が掌握していた。 そうした事情もあって天正2年(1574年)1月に越前一向一揆が勃発した際には名目上の守護代であった桂田を討ち果たした富田長繁ら一揆勢は次の標的として北ノ庄の3代官の命を狙った。北ノ庄を包囲された秀次らは絶体絶命の危機に立たされたが、安居景健、朝倉景胤らの説得によってどうにか一揆勢と和睦する事ができ、3代官は北ノ庄を明け渡すと京都へと逃げ帰った〔『朝倉記』〕。 のち、光秀に従って丹波侵攻に従軍。天正4年(1576年)2月20日付けの書状で丹波国内にある曽根村(現在の京都府船井郡丹波町曽根)惣中に宛てた光秀の判物に添状を発給している〔『思文閣墨蹟資料目録』〕。 天正7(1579年)年4月4日付け丹後の和田弥十郎宛て光秀書状では、落城間近な八上城攻めの凄惨な状況を報じ、落城後は直ちに丹後を攻めよとの仰せであると、協力を頼んでいるが、その時の使者(「同名少兵衛尉」)であろう〔『山崎合戦 秀吉、光秀と大山崎(34)』所収、大阪青山歴史文学博物館所蔵文書〕。 同年6月、波多野兄弟を神尾山城で捕らえた、光秀の家臣の中に名が見える溝尾勝左衛門は「三沢庄兵衛」の叔父か兄という〔『丹波家興敗畧記』巻之上、早稲田大学図書館蔵〕。 天正8(1580年)、9年に光秀が築いた周山城の郭に居を構えた武将の中に、「三沢庄兵衛」の名がみえる〔『丹波 第4号』所収、「宇津右近大夫と明智光秀」〕。 天正10年(1582年)、池田本『信長公記』に於いて本能寺の変前に光秀が謀反を打ち明けた重臣の中に「三沢昌兵衛」の名があるが同一人物か。山崎の戦いで死亡したとも、光秀が死去し、夥しい軍勢が押寄せて亀山を占拠し、打死した〔『蜂須賀家家臣成立書并系図』、徳島大学付属図書館蔵〕とも、言われるが、その最期に関してはよく分かっていない。しかし、本能寺後にそれらしき人物を示すような記録も残されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三沢秀次」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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