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伊沢 蘭奢(いざわ らんじゃ、1889年11月28日 - 1928年6月8日)は、島根県出身の日本の新劇女優である。本名三浦 シゲ(みうら シゲ)、デビュー当初、映画には三浦 しげ子や三浦 茂子(みうら しげこ)、三浦 繁(みうら しげ)名義で出演していた。 == 来歴・人物 == === 女優として === 1889年(明治22年)11月28日、島根県鹿足郡津和野町の紙問屋に生まれる。上京し、東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の日本女学校(現在の相模女子大学)卒業〔コトバンクサイト内の記事「伊沢蘭奢 」の記述を参照。〕後、漢方胃腸薬「一等丸」で知られる津和野の薬屋「伊藤博石堂」に嫁ぐが、新婚時代は夫・治輔と東京に住んでいた。しかし当時、近所に住んでいた夫の遠縁で、当時15歳の学生・福原駿雄(のちの徳川夢声)に慕われ、恋愛関係にあった。1910年(明治43年)8月3日、20歳のときに長男・佐喜雄(のちの作家・伊藤佐喜雄)を出産〔コトバンクサイト内の記事「伊藤佐喜雄 」の記述を参照。〕、津和野で暮らすことになる。 東京で観た松井須磨子の舞台が忘れられず、演劇を目指すため意を決し離婚する。6歳の佐喜雄を津和野の婚家に残し、1916年(大正5年)に26歳でふたたび上京する。 1918年(大正7年)、上山草人主宰の「近代劇協会」に加わり、同年『ヴェニスの商人』で初舞台を踏み、舞台女優として歩み始める〔。上山の推薦で、内藤民治の中外社で雑誌『中外』の記者となる。同年11月5日の島村抱月、翌1919年(大正8年)1月5日の松井須磨子の死、上山の渡米と近代劇協会の解散を機に、畑中蓼坡主宰し内藤が資金的に支援する劇団「日本新劇協会」へ参加する〔。松井亡き後の新劇界をトップスターとして10年もの間に渡って支えた。 1922年(大正11年)、32歳のころ、松竹蒲田撮影所と契約、牛原虚彦監督のサイレント映画『新しき生へ』に「三浦しげ子」の名で出演、同年8月31日に公開される。松竹蒲田では1923年(大正12年)7月までに15本の作品に出演したが、主演作は1作もなかった〔#外部リンク欄の日本映画データベース「伊沢蘭奢 」リンク先の記述を参照。二重リンクを省く。〕。同年9月1日の関東大震災により、松竹蒲田撮影所は製作を中断する。 1924年(大正12年)、内藤がソビエト連邦(現在のロシア)に旅立つ。伊沢は同年、芹川有吾の父・芹川政一の東京シネマ商会が製作し、畑中が演出する新劇協会の唯一のサイレント映画『街の子』に「伊沢蘭奢」の名で出演、以降、映画にも伊沢の名でクレジットされた〔。1925年(大正14年)、高松豊次郎のタカマツ・アズマプロダクションが東京府南葛飾郡吾嬬町(現在の東京都墨田区京島3丁目62番19号)に建設した吾嬬撮影所で、マキノ・プロダクション東京作品『輝ける扉』(監督山本嘉次郎)に出演、同作は同年12月4日に公開された。以降、同撮影所で翌1926年(大正15年)には3本のサイレント映画に出演した〔。 1928年(昭和3年)1月、仲木貞一が書いた戯曲『マダムX』(帝国ホテル演芸場)に主演し、大当たりする。同年3月1日 - 4月9日、浅草公園劇場で『マダムX』再演、名実ともに大女優の仲間入りを果たすが、同年6月8日、脳出血で死去、満38歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伊沢蘭奢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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