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三浦 光紀(みうら こうき、1944年6月27日 - )は、山形県酒田市出身の音楽プロデューサー。(石坂敬一は三浦を「現在の日本の音楽産業分野において、最強のアントレプレナー(起業家)型プロデューサーである」とコメント〔1995年5月29日付『ミュージック リポート』〕しており、三浦本人は音楽事業家と言っている) ==人物== *山形県立酒田東高等学校(同級生に、評論家の佐高信)を経て、早稲田大学を卒業。早稲田大学時代は、グリークラブ(1年下に渋谷系の牧村憲一、吉田拓郎など担当の故・前田仁。3年下にサザンオールスターズを発掘した高垣健などの音楽プロデューサーも在籍)に所属。 *1968年4月キングレコードに入社。文芸部教養課に配属され、長田暁二プロデューサーのアシスタントとしてスタート。1969年に先輩プロデューサーの小池康之に小室等を紹介される。教養課所属のために小室等との仕事をカタチにする企画としてギター教則レコード「フォーク・ギターの世界」を制作。それをきっかけに、アメリカのフォークソングに興味を持つ。1970年に中津川の全日本フォークジャンボリーの野外録音を強行。そこで高田渡・はっぴいえんどと出会う。1971年の全日本フォーク・ジャンボリーではあがた森魚・はちみつぱい(ムーンライダースの前身)を発掘。こうした一連の才気溢れる若いアーティスト達と仕事をしていく内に、英・米のフォークやロック、特にルーツ系ミュージックやそれらを体系的に記録するレーベルを深く知るようになる。 *1971年秋、三浦が関わり小室等が作った「出発の歌」(上條恒彦と六文銭)が世界歌謡祭でグランプリに輝き、その年の国民的ヒットとなる。 *1972年、キングレコード内に「ニュー・ミュージック(まさしくカテゴライズされたロックでもフォークでもない新しい音楽としての意味、このネーミングはこの時期三浦が名付けた。これは70年代半ば以降TOKYO SOUNDSとして完成され、90年代には渋谷系に発展する。)」を標榜するメジャーレコード初の独立レーベルである「ベルウッドレコード」を設立、取締役制作部長となる。社名の由来は当時の三浦を応援していたキングレコード文芸部長の鈴木実の「鈴木」から小室等が命名。マークは高田渡の長兄がデザインした。レーベルコンセプトとしては三浦が好きな「URCレコード」や「フォークウェイズレコード」にバーバンク系のサウンドカラーを加味したものをイメージしたとされている。三浦はベルウッド在籍中にアルバムを約50タイトル程制作している。代表作には「HAPPY END」(はっぴいえんど)「大瀧詠一」(大瀧詠一)「HOSONO HOUSE」(細野晴臣)「ごあいさつ」(高田渡)「私は月には行かないだろう」(小室等)「乙女の儚夢」あがた森魚「センチメンタル通り」(はちみつぱい)等々がある。 *1974年、三浦の恩人長田暁二のキング退社やフォーライフレコード設立騒動等もあり、ベルウッドレコード退社。 *1975年、日本初のアーティストが作った独立レコード会社「フォーライフレコード」(小室等・井上陽水・吉田拓郎・泉谷しげる)設立時には、株主、小室等の音楽プロデューサーとして参加。同年、ベルウッドのスッタフ・アーティストと共に日本フォノグラム(フィリップスレコード)に移籍。「ニュー・モーニングレーベル」を設立し、矢野顕子・喜納昌吉・ソー・バット・レビュー・桑名晴子などを発掘育成。代表作には「日本少年」(あがた森魚)「ジャパニーズ・ガール」(矢野顕子)「ソー・バット・レビュー」(ソー・バット・レビュー)「喜納昌吉&チャンプルズ」(喜納昌吉&チャンプルズ)「フィッシング・オン・サンデー」(高田渡)等がある。 *1979年、自身の独立レーベル設立の為、日本フォノグラムを退社。(1995年に会長として復帰) *1980年、「ジャパン・レコード」設立。ニューモーニングのスタッフ・アーティストと共に移籍。キングに残っていたベルウッドのスタッフとも合流。ここで三浦は経営に専念する為に矢野顕子の1981年5月発売シングル「春咲小紅」を最後に制作現場を離れる。BOØWY・一世風靡セピア(哀川翔・柳葉敏郎 他)・安田成美・伊藤つかさ等発掘。 *1984年、「ジャパン・レコード」と「徳間音工」が合併、「徳間ジャパン」(現 徳間ジャパンコミニケーション)が誕生。音楽部門の最高責任者に就任。それと同時に徳間グループ(徳間書店、徳間ジャパン、大映映画、東京タイムズ、スタジオ・ジブリ等々)のオーナーである徳間康快社長のアドバイザーになる。所属アーティストは矢野顕子等ジャパンレコード系のアーティストに加え、ZIGGY・リンドバーグ・五木ひろし・千昌夫・吉幾三等々。徳間社長の片腕として、宮﨑駿アニメの映画を立ち上げ、音楽プロデューサーに久石譲を起用。CS放送の音楽チャンネル「スペース・シャワー」の設立。チケット販売会社「CNプレイガイド」設立参加など様々な会社やプロジェクトを創設する。 *1991年、徳間音楽出版を母体にして、版権ビジネスの会社である「ズーム・リパブリック・ネットワーク(株主 徳間グループ・伊藤忠・三洋電機)」設立。取締役社長に就任。所属 岡本真夜・ザ モッズ・田中美奈子 他。 *1994年、「徳間ジャパンコミュニケーションズ」専務取締役(全体統括)に就任。 *1995年、徳間社長の了承を得て、マーキュリー・M・E社(元 日本フォノグラム)に代表取締役会長として復帰。所属アーティスト U2・エルトンジョン・ボンジョビ・松田聖子 他 *1998年、コンテンツ制作への投資会社「アート・ネット(株主 伊藤忠)」設立。代表取締役会長に就任。 *2000年6月、徳間社長の要請により、マーキュリー・M・E社を退社し、徳間社長の後継者になるべく特別相談役に就任。10月、徳間社長の逝去により退任。 *2002年、アート・ネット退社。以降、音楽業界から離れ、C型肝炎治療もあり、日本とハワイの往復生活。 *2012年、キングベルウッドレコード創立40周年を記念し、「CD40タイトル」の総監修と「三浦光紀の仕事(CD4枚組BOX)」を出す。 現在、自身の関わった作品を中心に、日本のフォークやロックの名盤保存及び伝承につながる仕事のみマイ・ペースでやっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦光紀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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