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三浦 朱門(みうら しゅもん、1926年(大正15年)1月12日 - )は、日本の作家。 日本大学芸術学部教授、文化庁長官(第7代)、社団法人日本文藝家協会理事長(第7代)、日本芸術院院長(第4代)などを歴任した。 == 略歴 == 東京府豊多摩郡(現・東京都中野区)東中野生まれ。父はイタリア文学者の三浦逸雄。2歳半ほどで東京府北多摩郡武蔵野村境(現・東京都武蔵野市境)に移り、さらに杉並区高円寺で育つ。 野方第五尋常小学校(現・中野区立啓明小学校)、東京府立第二中学校(現東京都立立川高等学校)から旧制高知高等学校を経て、東京帝国大学在学中、学徒動員で一兵士として軍隊に入り、千葉県の仮兵舎で敗戦を迎える。復学後、1948年東京大学文学部言語学科卒業。1950年第17次『新思潮』に参加し、1951年の「冥府山水図」で「芥川の再来」と呼ばれ、1952年「斧と馬丁」で芥川賞候補となり、作家活動に入る。妻の曽野綾子とともに、第三の新人の一人。父の口利きで1948年から日本大学芸術学部非常勤講師となり、1952年10月助教授に進み、1967年10月教授となるが、もともと日大の教員になったのは三流私大なら不勉強な自分でも教えられるだろうと高を括ったためであり、殊に30代半ば以降は作家としての収入が助教授の給料の数倍に達し、教員をするのがバカらしくなり、そういう気持ちが態度や勤務状況に反映して同僚から反感を買ったという〔三浦朱門『朱に交われば…』p.246。〕。結局、1969年の日大紛争で学生からも孤立し、赤塚行雄とともに辞職〔三浦・赤塚『さらば日本大学』〕。のち中部大学女子短期大学教授、1991-95年学長を務めた〔中部大学 〕。2004年に日本芸術院の院長に選出され、また2005年3月まで日活芸術学院の学院長を務めた。妻は作家の曽野綾子で二人ともカトリック信徒で、同時に天皇崇拝家。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦朱門」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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