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宝治合戦(ほうじかっせん)は、鎌倉時代中期に起こった鎌倉幕府の内乱。執権北条氏と有力御家人三浦氏の対立から宝治元年(1247年)6月5日に鎌倉で武力衝突が起こり、北条氏と外戚安達氏らによって三浦一族とその与党が滅ぼされた。三浦氏の乱とも呼ばれる。この事件は、得宗専制政治が確立する契機として評価されている〔佐藤・谷口、63頁〕。また、この事件の推移、経過を記述する史料は、吾妻鏡しか現存しない〔佐藤・谷口、63頁〕。 == 背景 == 仁治3年(1242年)、合議制によって幕府を主導し、有力御家人の間を調整してきた3代執権北条泰時が死去し、その嫡孫で19歳の北条経時が跡を継いだ。北条得宗家主導の政治に不満を募らせていた御家人達は、泰時時代には幼少だった将軍藤原頼経が成人すると、その元に集って北条執権体制への反対勢力を形成していた。 鎌倉幕閣は北条執権派と将軍派に分裂して対立を続け、寛元4年(1246年)、経時の病死と同時に宮騒動が勃発し、急遽5代執権となった弟の北条時頼により前将軍頼経が京都へ送還され、将軍派であった御家人達が処分された。この騒動の際、三浦氏は将軍派の背後にありながらも動かず、処分を受けなかったが、頼経の送還は大きな打撃であった。 三浦氏は鎌倉の地元相模国を本拠とする幕府創設以来の大族で、有力御家人が次々と排斥されていった中で生き残った北条氏に比肩しうる最大勢力であり、北条得宗家とは縁戚関係を結びながらも、常に緊張関係にあった。三浦氏当主三浦泰村は北条氏への反抗の意志はなかったが、弟の三浦光村は反北条の強硬派であり、前将軍頼経の京都送還に同行し、頼経の前で「必ず今一度鎌倉へお迎えします」と涙ながらに語り、その様子は北条時頼に報告されていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宝治合戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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