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三浦浄心(みうら じょうしん、永禄8年(1565年) - 正保元年3月12日(1644年4月18日))は江戸時代初期の随筆家。通称は五郎左衛門尉、諱は茂正、戯号は三五庵木算。相模三浦氏一族出身で、後北条氏に仕え小田原征伐等で戦った後、故郷三浦郡に落ち延びた。その後、江戸に出て出家し、自らの見聞等を仮名草子『慶長見聞集』『北条五代記』等に書き残した。 == 生涯 == 相模国三浦郡を根拠とする相模三浦氏の一族で、祖父出口五郎左衛門茂忠は出口城(三浦市初声町下宮田字和田〔鈴木かほる『相模三浦一族とその周辺史 その発祥から江戸期まで』新人物往来社、2007年 p.375〕)を根拠とし、三浦十人衆の一員だった。後北条氏の侵攻を受けて新井城に籠城し、永正13年(1516年)当主三浦義同が討たれた時、城ヶ島に逃れ、後北条氏に仕えた〔「人名題号にしらるる事」『北条五代記』巻9〕。 父茂信は北条氏政に仕え、里見義弘や武田信玄との戦で戦功を挙げた〔『北条五代記』巻4「北条氏政東西南北と戦ひの事」〕。 浄心は永禄8年(1565年)に生まれ、天正5年(1577年)父茂信の死去に伴い、これを継いで北条氏政に仕えた〔。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際、小田原城に籠城したが、落城し、後北条氏は滅亡した。 その後、故郷三浦郡は玉縄城代官長谷川長綱支配となり、帰郷して農業を営んだ〔。しかし、年貢未進のため代官に妻子を取られかけるなど、生活は苦しく、年貢を完納した後、繁栄を耳にした江戸に出て〔、伊勢町に住んだ〔『慶長見聞集』巻5「花をる咎に縄かゝる事」〕。 上野寛永寺の南光坊天海に帰依し、浄心寺に住し、正保元年(1644年)3月12日死去し、浄心寺に葬られた〔。浄心寺は当初[清水観音堂側にあったが、普門院用地となり、文殊楼下不忍池畔に移転したが、これも用地となって廃寺となり、仏像は普門院に預けられた〔近藤瓶城『史籍集覧』第10冊〕。 墓は普門院廃寺後も上野下寺通に残っていたが、明治20年(1887年)頃上野駅用地となり、東漸院谷中墓地に移された〔小宮山綏介『近古文芸温知叢書』第8編、明治24年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三浦浄心」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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