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三灶島(さんそうとう)は中国南部にあった島。島名は、島内を縦断する三本の尾根が、上空から俯瞰するとちょうど竃の形のように見えることに由来するという〔中国語繁体字では「三竃島」となるが、繁体字を使用している台湾、香港、マカオでも「三灶島」の文字を使用しているほか、1938年4月から敗戦までこの島を占領した日本海軍も当時から公式文書で「三灶島」の漢字を使用していた〕。 埋め立てが進み現在では大陸と地続きになっている。広東省珠海市金湾区三灶鎮。国内空港である珠海金湾空港があり、北京、上海など一日20便あまりが発着している。現地は珠江三角州の河口部に立地し、豊富な土地、水資源に恵まれているうえ、航空、海運、陸上輸送の要衝に有り、隣接する横琴島とともに工場誘致が進み、台湾、日本など海外資本の工場が進出しており、珠海経済特区有数の工場地帯となった。 隣接する横琴島、さらにその隣のマカオともども、中国第四の大河珠江が運ぶ川砂でしだいに海が埋まり、陸地面積が広がるという宿命にあり、戦後進んだ埋め立てと相まって、往時の原地形は著しく失われている。三灶島も現在は橋梁で他の地区と結ばれ、拱北、香洲など珠海市中心部とは、高速道に匹敵する快適な道路で結ばれており、自動車で約40分から1時間の行程である。 == 歴史 == 1938年2月(旧暦1月)、日本海軍は中国本土爆撃用の飛行場適地を探して蓮塘湾から三灶島に上陸したが、このときは住民に危害を加えることなく、いったんは横琴島方面に退却した。しかし1938年4月(旧暦3月)、海軍陸戦隊6,000人を満載した上陸用舟艇が再び三灶島に上陸、大規模な掃討作戦を展開。三灶島を占領し、中国本土爆撃用の秘密飛行場(第六航空基地)を建設した〔第六航空基地司令官『軍極秘 三灶島特報』第一号~第五号 1938年6月15日~10月1日発行 防衛省防衛研究所戦史室架蔵史料 謄写版印刷〕。 そもそも三灶島は貧しい半農半漁の島で、国民党統治時代には、現在の珠海空港に沿った「五保」(5つの村落)と、島中央部にひろがる平野部にある「十三保」(13の村落)で構成されていた。。また、中国側文献によれば九死に一生を得てマカオなどで難民生活を送った人々も3,500余人が餓死したといい〔傳玉蘭主編『抗戦時期的澳門(特別展図録)』澳門特別行政区文化局澳門博物館出版、2001年。〕、この島に建設された秘密飛行場(日本海軍第六航空基地)建設工事など、その余の犠牲者と合わせ、中国側文献では、犠牲者をさらに3,000人上乗せしている〔黄金河著『文化三灶』中国〇刷出版社、2005年刊〕。 。また、珠海市政府は三竃島万人墳を拡張整備し、800万元の予算を投じて「三灶島侵華日軍暴行及罪証陳列館」を建設し、周辺を史跡公園に整備すると報道発表したが、資金難などからいまだ建設工事にはいたっていない〔人民網—珠海建三灶島侵華日軍暴行及罪証陳列館 〕。 なお、大規模な掃討作戦で無人となった島中心部の村々(旧 十三保)には、海軍第六航空基地の食糧自給と、現地抗日勢力との遮断を目的として、1940年から二次にわたり、沖縄から「軍属」として、農業移民100家族、約400人が入植した〔浦島悦子「三灶島(中国)」『名護市史本編5~出稼ぎと移民Ⅲ』所収、名護市役所2008年〕。これら農業移民の子弟のための興亜第一国民学校(現中興小学)が開校したほか、日本軍に帰順した海岸沿いの村落(旧 五保)の中国人子弟らへの宣撫工作として、島民向けの興亜第二国民学校(現海澄小学)が開校し、日本人、台湾人軍属らが教壇に立ち、卒業生を出していた。このほか、島中心部には三灶神社(現三灶鎮政府庁舎敷地内)があったほか、興亜第二国民学校近くにも鳥居のある祠があったといい、現在もその一部が同校に現存している。海軍兵士らが駐屯した海軍第六航空基地近くの上表村などには、少なくとも2カ所の慰安所が存在していたとされる〔長谷川伸『事実残存抄』同著『生きている小説』光文社、所収、1958年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三竃島」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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