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三田大講堂(みただいこうどう)は、かつて東京府東京市港区三田の慶應義塾大学三田キャンパス内に存在した建築物である。正式名は慶應義塾大講堂(けいおうぎじゅくだいこうどう)。収容人数は、2,000席。昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲により焼失。 == 沿革 == image:Mita grand hall 1915.jpg|大正4年(1915年)完成時。 image:The inside of the Mita grand hall.jpg|大講堂内部。 慶應義塾大学の塾生数の増加やより収容人数の大きなホールが必要となった事に伴い、慶應義塾特選塾員及び慶應義塾評議員である森村財閥の創始者・森村市左衛門が発起人となり、財団法人森村豊明会の5万円を軸に、福沢桃介ら有志の寄付により建設を開始。1913年(大正2年)12月19日に着工して1915年(大正4年)4月25日に完成した。開館式には、森村市左衛門の他、渋沢栄一、葦原雅亮、犬養毅が出席して鎌田栄吉が開会の辞を述べた〔『三田評論』 1915年7月 第216号〕。更に成瀬正行(川崎造船所取締、盛興商会総帥)が寄贈した和田英作による福沢諭吉全身立像画の大額も掲げられた。 三田キャンパス西側崖上の「ヴィッカース・ホール」の跡地に建築。座席は全席長腰掛、一階は移動可能。採光のために北・東・南の三方に側窓が設けられ、屋窓を開いてその下方にステンドグラスがはめ込まれるという構造。東京帝国大学の安田講堂よりも早くに起工及び竣工されており、大学講堂近代建築の歴史内でも重要なものと言える。 大正12年(1923年)9月の関東大震災による被災で外壁が大きく破損したが、三井家や森村財閥、古河虎之助、野村実、成瀬家、藤田平太郎、日比谷平左ェ門、岩崎家ら慶應義塾ゆかりの人物や団体の寄付もあり、改修工事が行われ再度供用。玄関がすっかり改装されて三階のバルコニーにはマスコットのユニコーン像が設置され、天窓に二本の剣が設置されているのが特徴である。 昭和20年(1945年)アメリカ軍の空襲により焼失。敗戦後、財閥解体や多くの慶應義塾関係者が公職追放となったことにより再建が不可能になった。また、大講堂を失った慶應義塾大学は、それから創立100年「日吉記念館」の完成まで、式典は野外で挙行しなければならなかった〔創立九十年記念式典 〕。ついに焼け残った外壁は昭和32年(1957年)5月に取り壊され、跡地に西校舎が建設された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三田大講堂」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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