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三田綱秀 : ミニ英和和英辞書
三田綱秀[みた つなひで]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 

三田綱秀 : ウィキペディア日本語版
三田綱秀[みた つなひで]
三田 綱秀(みた つなひで、延徳3年(1491年)? - 永禄6年(1563年))は、戦国時代武蔵国武将三田政定の子。勝沼城辛垣城城主。弾正少弼三田綱定と同一人物か。
三田氏室町時代関東管領山内上杉氏に従っていた。だが、戦国期に入り山内上杉氏が衰え後北条氏が勢力を伸ばしてくると後北条氏の傘下に入った。永禄2年(1559年)に後北条氏が作成した『小田原衆所領役帳』には他国衆として記されている。
永禄3年(1560年)、長尾景虎上杉憲政を擁して関東に出陣してくると、綱秀もこれに従い「関東幕注文」に名を連ね、永禄4年(1561年)の小田原城包囲にも参加している(小田原城の戦い)。景虎帰陣後、景虎に従った関東の武将の多くが再び後北条氏の傘下に入る中、綱秀は後北条氏に抵抗し続けた。
防衛に向かない勝沼城から堅固な辛垣城に移って頑強に抵抗を続けるが、北条氏照の攻撃によって永禄6年(1563年)に辛垣城は落城(辛垣城の落城時期については永禄4年、永禄5年説もある)。綱秀は岩槻城太田資正の元へ落ち延び、そこで自刃した。享年は73といわれている。
嫡男十五郎と次男喜蔵は家臣に託されたが、十五郎は永禄6年(1563年)、喜蔵は永禄7年(1564年)に没した。
他に五郎太郎という子もいたらしいが、彼は元亀3年(1572年)に伊豆で自殺したという。
== 参考文献 ==

*下山治久『後北条氏家臣団人名辞典』(東京堂出版、2006年) ISBN 978-4-490-10696-1
*大森光章『武州郷土誌 青梅物語』(ふえみなあ社、1968年)


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三田綱秀」の詳細全文を読む




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