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三益 愛子(みます あいこ、1910年(明治43年)11月2日 - 1982年(昭和57年)1月18日)は、戦後母物映画で一世を風靡した日本の女優のひとり。 本名:川口 愛子(かわぐち・あいこ)、旧姓:乾(いぬい)。大阪府大阪市南区南炭屋町(現・中央区)の生まれ。直木賞作家の川口松太郎は夫にあたる。川口との間には三男一女があり、俳優の川口浩は長男にあたる。 宝塚歌劇団24期生の紀川瑠璃子は実妹にあたる。 == 来歴・人物 == 1927年(昭和2年)に大阪府立阿倍野高等女学校を中退し、大阪の劇団『新潮劇』に加入。水町晴子の芸名で初舞台を踏んだ。 1929年(昭和4年)に上京。1932年(昭和7年)には松竹専属となった榎本健一の劇団『ピエル・ブリアント』に入りエノケンの相手役をつとめた。翌年には、古川緑波もいた松竹傘下の喜劇集団『笑いの王国』に招かれ、芸名を三益愛子に変えて看板女優となった。1934年(昭和9年)には太秦発声映画で映画初出演し、その翌年に東宝に入った。戦前は舞台だけでなく、映画でもコメディエンヌとして活動した。 1936年(昭和11年)に長男の浩を出産、当時は浩の父親である川口松太郎に妻子があったため、1951年(昭和26年)まで入籍しなかった。1942年(昭和17年)には芸能界を引退して家庭に入るものの、松太郎の勧めで1947年(昭和22年)に芸能界に復帰した。同年12月、松太郎が大映の専務取締役(制作担当)に就任すると共に大映に入社。 1948年(昭和23年)に映画『山猫令嬢』に女学生の母親役で主演。この役が大ヒットとなり、以降は悲劇の母を演じた「母もの」シリーズに10年間で33本もの主演を続けた。 1956年(昭和31年)8月23日、ヴェネツィア国際映画祭に出席のためイタリアのヴェネツィアへ出発。同9月13日、日本に帰国した。当時はまだ海外渡航自由化の前で、貴重なイタリア訪問となった。 1959年(昭和34年)、菊田一夫の舞台『がめつい奴』で主役の「お鹿ばあさん」役を演じて、大ヒットとなる。上演日数270日、上演回数371回のロングラン記録を作った。この演技で芸術祭賞、テアトロン賞を受賞する。 1976年(昭和51年)、東映『横浜暗黒街・マシンガンの竜』で菅原文太の母親として親子でマシンガンを撃ちまくる麻薬強盗役を演じた。11月、紫綬褒章を受章した。 1982年(昭和57年)、東京女子医大病院で膵臓癌のため死去した。享年71。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三益愛子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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