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三神吾朗 : ミニ英和和英辞書
三神吾朗[みかみ ごろう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [かみ]
 【名詞】 1. god 
: [われ]
 【名詞】 1. me 2. oneself 3. self 4. ego

三神吾朗 : ウィキペディア日本語版
三神吾朗[みかみ ごろう]

三神 吾朗(みかみ ごろう1889年明治22年)11月6日 - 1958年昭和33年)6月24日)は、日本プロ野球選手。日本にまだプロ野球が存在していない時代に、アメリカのプロ野球チーム「オール・ネイションズ」でプレーした。守備位置は外野手遊撃手投手一塁手
アマチュアテニス選手で、早稲田大学の「三神記念コート」にその名前を残す三神八四郎は兄。
==経歴==
山梨県中巨摩郡大鎌田村(現・甲府市)出身。豪族で甲府電灯会社(後に東京電力が吸収合併)の創業者である父・三神有長、母・三神とよの間に、11人兄弟の五男として生まれる。
旧制甲府中学校(現・山梨県立甲府第一高等学校)を経て1908年(明治41年)、早稲田大学に進学し、野球部に入部。中学時代は投手であったため大学でも始めは投手を務めたが、早稲田野球部の先輩であった飛田穂洲が「(入部当初の三神は)酷評すれば僅かに球を投げる術を知っていたに過ぎなかった」〔『名選手の面影』 恒文社 1946年〕と評する程度の実力で(これは、当時の山梨県では野球がほとんど盛んではなかったことに起因する)、試合には出場できず、打撃投手のみを務めていた。しかし外野手に転向して後は頭角を現し、レギュラーとなる。1911年(明治44年)、野球部がアメリカ遠征をした際のメンバーにも選出された。
1913年大正2年)、ノックス大学へ留学。野球部に入部し、主に遊撃手、時に投手を務め、「この日本人選手こそは、わが大学チームの命であって、彼が走塁を始めたら、もう誰もアウトにすることができない」と校史に記録されたほどの走塁と、フィールディングの良さからチームの中心選手となる。1915年(大正4年)にはキャプテンも務めた。
1914年(大正3年)の夏休みに、有色人種(当時の大リーグでは有色人種は入団できなかった)を含めて編成される独立巡業プロチーム「オール・ネイションズ」(後のカンザスシティ・モナークス)に参加。
1916年(大正5年)イリノイ大学に進学し経済学を専攻、その後三井物産に就職し、野球とは関わらなくなった。
1958年(昭和33年)6月24日、胃穿孔のため死去。68歳。墓所は青山霊園

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三神吾朗」の詳細全文を読む




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