|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 三 : [み] 1. (num) three ・ 職 : [しょしき, しょく] 1. (n,n-suf) employment ・ 任 : [にん] 【名詞】 1. obligation 2. duty 3. charge 4. responsibility ・ 問 : [もん] 【名詞】 1. problem 2. question ・ 問題 : [もんだい] 【名詞】 1. problem 2. question ・ 題 : [だい] 1. (n,vs) title 2. subject 3. theme 4. topic
三職推任問題(さんしょくすいにんもんだい、さんしきすいにんもんだい)とは、天正10年(1582年)4月25日、5月4日両日付けの勧修寺晴豊の日記『晴豊公記』(天正十年夏記)の記事の解釈を巡る問題と、その論を立脚点とした織田政権の将来構想や本能寺の変の背景に対する考察を含む、日本の歴史学上の論争である。 == 背景と概要 == 織田信長は尾張時代には上総介〔当初は上総守を自称していたが、上総国は親王任国であり人臣が上総守に就くことはない。そのため上総介に改称したと見られている。〕を自称し、今川義元を破った後は尾張守を称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って備後守や三河守の官を得た父信秀とは対照的である。 足利義昭を奉じて上洛した後も弾正少忠や弾正大弼といった比較的低い官に甘んじている。しかし将軍足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇した。天正2年(1574年)に参議に任官して以降わずか3年で従二位右大臣に昇進している。これは武家としては源実朝以来の右大臣任官であり、また信長以前にこれより上位の官職に生前任官した武家も平清盛(太政大臣)・足利義満(太政大臣)・足利義教(左大臣)・足利義政(左大臣)の4人しかいなかった。しかし信長は天正6年(1578年)4月に右大臣兼右近衛大将を辞した後は官職に就かず、以後4年の長きに渡って散位のままだった。 こののち2度にわたって信長の任官が問題となった。先ずは、天正9年3月、朝廷より左大臣就任を求められるが、信長は、正親町天皇の譲位を条件と返答するものの、結局、実現はなされなかった。2度目の天正10年4月から5月という時期は、その直前の3月に信長が甲州征伐で甲斐武田氏を滅ぼし、北条氏も実質的に信長に従属したことから、朝廷では当時これをもって信長が関東を平定したものと解釈していたからである。 5月には武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝の邸を訪れ、ふたりの間で信長の任官について話し合いが持たれた。勧修寺晴豊はこの件について日記に書き記している。この話し合いのなかで、信長が征夷大将軍・太政大臣・関白のうちどれかに任官することが、朝廷側もしくは信長がわから提案された。 三職推任問題とは、この任官を提案したのが朝廷側だったのか信長側だったのかという問題である。 信長が将来的に朝廷をどのように扱おうと考えていたのかを考察する考える上での貴重な資料となりえる重大な問題だが、信長からの正式な回答が判明する前に本能寺の変が起こったため、信長自身がどのような構想を持っていたのかは永遠の謎となってしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三職推任問題」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|