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三菱社 : ミニ英和和英辞書
三菱社[みつびし]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
三菱 : [みつびし]
 (n) Mitsubishi (company)
: [やしろ]
 (n) shrine (usually Shinto)

三菱社 ( リダイレクト:三菱財閥 ) : ウィキペディア日本語版
三菱財閥[みつびしざいばつ]

三菱財閥(みつびしざいばつ)は、日本三大財閥の1つ。
土佐藩出身の岩崎弥太郎が創立した三菱商会を基盤に、明治政府の保護も得て海運業を独占。1893(明治26)年三菱合資会社を設立。これを持株会社として造船業鉱業鉄道貿易などあらゆる分野に進出。第二次世界大戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の指令により解体された(財閥解体)。
== 経歴 ==

=== 財閥の起源 ===
三菱財閥は、俗に三井住友とともに三大財閥であるが、三井、住友が三百年以上の歴史を持つ旧家なのに対して、三菱は岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を築いたという違いがある。
最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立し全国統一貨幣制度に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、十万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であるが、いわば弥太郎は最初から、政商として暗躍した。
土佐藩は坂本龍馬近江屋井口新助邸で暗殺されたことで解散した海援隊の後身として、大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(現在の土佐稲荷神社付近)で始めた九十九商会の監督を弥太郎に1870年に任じた。さらに翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となった。弥太郎は県から土佐藩所有の船三隻を買い受け、1873年三菱商会と改称し、海運と商事を中心に事業を展開した。これを機に西南戦争(1877年)のときには、さらなる巨万の富を掌中にする。
商会はこの戦争で政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結の残った軍需品の処分までまかされ、一挙に莫大な利益を得ることになった。政府が西南戦争で支払った戦費は4,150万円といわれるが、そのうち1,500万円が三菱の儲けだった。しかし、その裏には後藤象二郎を通じてときの最大の権力者大久保利通大隈重信といった政府要人の後ろ盾があったことは言うまでもない(ちなみに三井財閥は、長州閥伊藤博文井上馨品川弥二郎らに肩入れして対抗していた)。
だが、政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がった。そんなさなか弥太郎の後援者だった大久保利通が1878年に暗殺され(紀尾井坂の変)、1881年には大隈重信が失脚する(明治十四年の政変)。勢いをえた長州閥と三井はここぞとばかりに三菱バッシングに打って出た。その最大のものが、海運業を独占していた三菱に対して、政府が音頭とって財界人の渋沢栄一三井八郎右衛門大倉喜八郎政商を結集して設立した半官半民の共同運輸会社だった。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは、1883年4月から2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。
こうしたさなか、幕末、維新の激動のなかを風雲児として駆け抜けた弥太郎が病死する。死後、三菱、共同運輸の共倒れを恐れた政府が調停にたち、両社は合併して日本郵船を発足(1885年9月、資本金1,100万円、うち岩崎家出資金500万円)させて、この死闘に終止符をうった。明治18年に弥太郎亡くなったあとは、三菱の重鎮として、岩崎一族には、弥太郎の従弟・豊川良平近藤廉平(妻が豊川良平の妹)、弥太郎の姪姉妹を妻とした荘田平五郎各務鎌吉などがいた。この豊川良平、近藤廉平、荘田平五郎のほかに、末延道成を加えた4人が、弥太郎亡きあとの三菱発展に大いに貢献し、“三菱四天王”といわれた。
弥太郎のあとを受けて三菱総帥となったのが弥之助である。弥之助は三菱の事業を「海から陸へ」と方向転換し、それまで副業としていた炭鉱、鉱山、銀行、造船、地所などの発展に力をそそぎ、そのための新組織として「三菱社」を創設する。いわばこれが後の財閥形成の基になった。この後、三菱総帥の地位は、明治26年に三菱合資会社を設立した時点で、兄弥太郎の長男・久弥が継ぎ、さらに大正5年弥之助の長男・小弥太に引き継がれ終戦を迎えることになる。
このように三菱財閥は弥太郎、弥之助の兄弟家系で世襲し、同族で発展したことから、「独裁政治」と言われる。ちなみに三井は「番頭政治」、住友は「法治主義」と言われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三菱財閥」の詳細全文を読む




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