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三輪執斎(みわ しっさい、寛文9年(1669年) - 寛保4年1月25日(1744年3月9日))は江戸時代中期の儒学者。諱は希賢(まれかた)、通称は善蔵、号は執斎、躬耕廬。贈正五位。 佐藤直方に朱子学を学び、中江藤樹の著作より陽明学に傾倒した。中院通茂に和歌を学んだ。 == 生涯 == 執斎は京都綾小路通東洞院東入ル神明町南側の医者沢村自三の子として寛文9年(1669年)誕生した。延宝7年(1679年)に母都次が、天和元年(1681年)父が死去し、父の従弟で白木屋創業者初代大村彦太郎に引き取られた。成人後は真野氏の養子となった。 貞享4年(1686年)江戸に下った。江戸行に関しては、北野天満宮で2歳上の大村彦太郎と立身出世を誓い合ったとの逸話が伝えられるが、大村とは養父養子の間柄であり、大村側の年譜にも合わず、俗説に過ぎない。江戸到着後、山崎闇斎門下の上野厩橋藩藩儒・佐藤直方に入門し、江戸城大手門前の同藩上屋敷を住まいとした。元禄3年(1690年)1月6日には京屋敷での講義を任される程となっており、春には10人扶持の俸禄を得、後に30人扶持となった。元禄6年(1693年)には直方に従って前橋城下に至り、北西にある橘山を訪れている。佐藤の指導の下朱子学の学習に励む一方、次第に陽明学に傾倒していった。 元禄8年(1695年)、禄を辞して本郷菊坂に移った。執斎の陽明学への傾倒が原因とも、藩主・酒井忠挙が祐天上人に傾倒したためともいう。 元禄10年(1697年)京都に帰り、愛宕郡上賀茂村神山に住んだ。そこで、当時京都所司代の任にあった丹波篠山藩主・松平信庸に教えを請われた。信庸は酒井忠挙の妹彦姫を正室としており、その伝と考えられる。元禄14年(1701年)、上賀茂村大田神社前岡本采女家借家、元禄16年(1703年)には烏丸通下長者町下ル中院家邸(現護王神社)、その後も高倉通二条、油小路通下長者町上ル町、北野等、京都各地を転々とした後、享保元年(1716年)7月23日、江戸に詰めていた松平信庸に請われる形で京都を離れた。8月6日巣鴨の同藩下屋敷に到着、飯田町坂下今川民部公屋敷裏を住居とした。 享保11年(1726年)秋、下谷和泉橋(千代田区神田和泉町辺)に私塾明倫堂を設立した。 享保末年、喘息を発し、京都に退居した。明倫堂は始め下谷御徒町二長町の為之丞宅に移す予定だったが、門下川田雄琴に跡を継がせることとなった。川田は同年中江藤樹とも所縁のある伊予大洲藩に取り立てられており、明倫堂は大洲の地への移転を目指すこととなった。 元文4年(1739年)11月、代々の墓がある建仁寺両足院に父母の墓を建て、翌月その背後二本の杉の下に自らの墓も建て、「垂乳根に還へすこの身をおくつきの徴とぞ見る杉の二本」「契り置く玉の在り処をこゝと見よ骸はいづくの土となるとも」の二首を刻した。寛保4年(1744年)危篤となり、1月23日、24日未の刻「寛保四年子正月廿五日三輪希賢死」と自書、翌日寅の刻に息を引き取った。 大正13年(1924年)1月26日、正五位を贈位された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三輪執斎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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