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三輪徳寛 : ミニ英和和英辞書
三輪徳寛[みわ よしひろ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
三輪 : [みわ, さんりん]
 【名詞】 1. three wheels 
: [わ]
 【名詞】 1. ring 2. hoop 3. circle 

三輪徳寛 : ウィキペディア日本語版
三輪徳寛[みわ よしひろ]
三輪 徳寛(みわ よしひろ、1859年9月9日安政6年8月13日) - 1933年昭和8年)2月19日)は、医学博士千葉医科大学(現千葉大学医学部)初代学長。第15回日本外科学会会長。尾張国(現愛知県)出身。
== 生涯 ==

=== 来歴 ===
;生い立ち
:三輪徳寛の故郷尾張国海西郡早尾村(現・愛知県愛西市早尾町)は木曽川河口の立田輪中にあり、徳寛が生まれた安政年間は戸数70戸弱の集落だった。三輪家は早尾村で代々医術を生業とし、祖父三輪景之進は産科を、父三輪徳太郎(字大成)は眼科医を営んでいた。父徳太郎は京都にて眼科医として当時名高かった中目道純に学び、帰郷後の1851年嘉永4年に早尾で開業し評判を得、三輪家は裕福な家であった。母は村瀬清九郎の次女みゑ。1859年9月9日(安政6年8月13日)、三輪徳寛は二男一女の末子として誕生した〔「三輪徳寛 本伝 第2章 1生い立ち 2流行医としての父 8-14頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
:徳寛は1867年慶應3年)津島の堀内馬太郎の私塾手習いをし、若山東庵の私塾で漢学を学んだ。1872年明治5年)、母方の伯父村瀬周一に家業である医学を行うならばこれからは西洋知識が必要になると諭され、名古屋近代医学講習所に入学するが、劣悪な学習環境から翌年帰郷するに至った。勉学継続のため、再び名古屋の河原塾に入塾し、河原塾の玄関で起臥しつつ漢学を修めた〔「三輪徳寛 本伝 第2章 3少年時代の教育 4医を志す 14-17頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
:1874年(明治7年)3月、大学東校に在学中の兄三輪重秀を頼り上京。4月本郷壱岐坂にある壬申義塾に入塾、寄宿舎より塾に通った。当時、寄宿舎生としては青山胤通・古川榮、通学生として寺島紘一等がいた。同年11月東京外国語学校に転入、外国語学校の同級生としては加藤照麿・宇山玄硯、上級生として福永録造等がいた。1876年(明治9年)12月、東京大学医学部予科3年に編入となった〔「三輪徳寛 本伝 第3章 1青雲の志を抱いて上京す 2壬申義塾・外国語学校・大学予科 18-22頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
;大学・大学院時代
:1880年(明治13年)医学部本科に進み、1887年(明治20年)7月9日に卒業(明治19年度卒業生)した。徳寛が卒業した明治19年は、学制改革により大学名称が東京帝国大学医科大学となった〔明治20年7月11日付官報 第1209号 帝国大学文科大学卒業証書授与〕。なお、明治19年度卒業同期生としては伊東重岡田国太郎桂秀馬佐藤恒久高畑挺三小川三之助等がいる〔「三輪徳寛 本伝 第3章 3大学在学中 22-29頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
:大学において当初は眼科医を目指していたが、眼科担当教授が病にかかったため外科担当ユリウス・スクリバ(Julius Karl Scriba)教授に師事することになった。大学卒業後、大学院に進学し引き続きスクリバの下で外科を専攻した。大学院では、「日本人の身長及び体重研究」「力士調査」に取り組んだ。徳寛より大学では1年次下の明治20年度大学卒業ではあるが学制変更で同時期に卒業となった猪子吉人・陸軍医務局に入局した岡田国太郎・保利眞直芳賀栄次郎等が共に大学院で学んだ。徳寛は大学院では当初唯一の給費生に選ばれ、月給5円の支給を受けていた〔「三輪徳寛 本伝 第4章 1大学院生 29-31頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕〔「三輪徳寛 回想録 7大学卒業後千葉任官迄 321-329頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
;卒業後
:1888年(明治21年)12月大学院卒業と同時にスクリバ教授の助手に採用された後、1889年(明治22年)5月第一高等中学校医学部(後の千葉医科大学)教諭に任命され外科学を担当した。併せて附属の県立千葉病院においても外科を担当した。第一高等中学校医学部外科担当前任者は大学同期生桂秀馬であったが、同人が宮内省に転任することとなり紆余曲折の末に徳寛が後任となった。当時医学部の体制は主事長尾精一(産婦人科・小児科)、石川公一(純内科)、大西克孝(内科・精神病・診断学・薬物学)、荻生録造(眼科・法医学理論)、三輪徳寛(純外科・臨床講義)、堤宗卿(外科総論・皮膚病・臨床講義)、新井春次郎(解剖学)、松村三省(病理解剖・組織学)、山木治郎(生理)であった〔「三輪徳寛 第5章 1赴任まで 2其頃の学風 40-46頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
;ドイツ留学
:従来官費留学生は大学教授にだけ許されていたが1897年(明治30年)高等中学校医学部教授にも官費留学が認められることとなり、徳寛は木村孝蔵・田代正と共に高等中学校教授の第一回官費留学生に選ばれ同年9月3日(8月19日付辞令)に横浜よりマルセイユ経由でドイツに向かった。10月16日にドイツ・ベルリンに着き、留学先のブレスラウに向かい外科のミクリッツ(Johann Anton von Mikulicz)、皮膚科のナイセル(Albert Ludwig Siegmund Neisser)。ウィーンヴュルツブルクストラスブルク、ベルリン、ハイデルベルク等で外科・皮膚科に係る病院見学、臨床学習を行い、ロンドン経由で1899年(明治32年)8月24日に帰国した。それぞれの留学先では、呉秀三佐藤達次郎・岡村達彦・高安道成等と行動を共にすることもあった〔「三輪徳寛 第6章 2独逸留学 57-66頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
;帰国後、病院長就任
:1901年(明治34年)4月1日、第一高等中学校医学部は文部省直轄諸学校官制改正により千葉医学専門学校として独立 (勅令第24号)し、 医学科(4年制)・薬学科(3年制)を設置した。1902年(明治35年)7月16日、県立千葉医学校・第一高等中学校から引き続き千葉医学専門学校の初代校長・附属病院院長を勤めた長尾精一が亡くなり、荻生録造が第二代校長・病院長に就任した。荻生が1903年(明治36年)よりドイツに留学することになり、一時徳寛が校長並びに病院長代理を勤めた。校長代理時代の1904年(明治37年)日露戦争が勃発、千葉医学専門学校長は赤十字社支部看護婦養成所長も兼ねており、日露戦争戦傷者を収容した東京予備病院千駄ヶ谷分院及び戸山ヶ原分院での治療を担当すると共に派遣看護婦の管理督励を行った。これにより1906年(明治39年)、国より勲四等瑞宝章を、赤十字社より銀杯一個を贈られた。
:1909年(明治42年)維新以降の急激な社会変革の犠牲となった貧困層の救済に立ちあがり、同年6月貧困患者救済のための委員会を立ち上げ委員長に就任した。1931年昭和6年)12月文部省の認可を得て資金は寄付行為によることとなり、「財団法人千葉医科大学付属医院同人会」が設立した。1913年大正2年)2月より、予てから希望していた全国各地の病院・赤十字看護婦養成所の視察見学を開始した。また、入院患者数の増加に対応するため千葉県の了解を得て県債を発行し資金を確保し行った病院増改築が同年竣工するに至った。
:この様な状況の中、1914年(大正3年)12月11日病気療養中であった荻生録造が逝去し、同月18日徳寛が第三代校長に就任した〔「三輪徳寛 第7章 1第一高等学校改称千葉医学専門学校 2専門学校長並病院長拝命まで 85-90頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
;医科大学昇格
:学校長就任後、学生の勉学向上のため日中学生が自由に居られる場であり集会や急の宿泊場所として活用できる「学生集会所」を1915年(大正4年)に建設した。
:また、同年には徳寛の発意により職員卒業生三百七十余名が発起人となり、大正天皇即位大礼を記念して「財団法人千葉医学専門学校奨学会(1920年(大正9年)「猪之鼻奨学会」へ名称変更)」を設立した。奨学会は日露戦争を通じて医学の更なる進歩発展が必要との認識から、「医学者をして研究の便益と資料とを得せしめ以って其の業績を奨進助成する」ことを目的としている〔「三輪徳寛 第8章 1学生集会所の建設 2ゐのはな奨学会の創立 91-98頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
:1917年(大正6年)頃より5医学専門学校の大学昇格が論じられるようになり、千葉医学専門学校も1923年(大正12年)4月1日千葉医科大学に昇格した。これに伴い徳寛は初代学長に就任した〔「三輪徳寛 第8章 3大学昇格 98-101頁」(鈴木要吾編 三輪徳寛先生伝記編纂会 1938年)〕。
:大学昇格の翌年1924年(大正13年)2月1日、徳寛は定年により大学長を辞し、3月1日名誉教授となった。以降、鵠沼に隠棲し1933年(昭和8年)2月19日に逝去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三輪徳寛」の詳細全文を読む




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