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三輪 悟(みわ さとる、1945年9月18日 - )は、新潟県新潟市出身の元プロ野球選手。右投右打で、ポジションは投手。 == 来歴・人物 == 新潟市立工業高等学校在学時はエース投手だった。卒業後の1964年、新潟市水道局に入局。軟式の同野球部でプレーを続けた。同年の新潟地震では被災した水道施設の復旧に奔走した経験を持つ。その後地元金融業の東光商事にスカウトされ、同野球部で硬式に再転向。都市対抗野球大会の補強選手として頭角を現し、電電信越(現NTT信越硬式野球クラブ)に移籍した。1969年秋、西鉄ライオンズからドラフト2位で指名され入団、プロの道に進んだ。 ルーキーイヤーの1970年、西鉄は黒い霧事件の影響で主力級投手を失う事態に陥ったこともあって、三輪は先発にリリーフにとフル回転を続け、45試合に登板して7勝14敗、防御率2.91を記録。チームでただ一人同年のオールスターゲームに監督推薦で出場した。なお、後に通算251勝をマークする東尾修は同年5月16日にプロ初勝利を挙げたが、この試合にもクローザーとして登板している。三輪は以後、西鉄から太平洋クラブへとオーナー・スポンサー企業が移り変わるライオンズの低迷期を屋台骨として支え続けた。オーバースローから球威があるわけではないが、ピッチングはいたって大胆かつ繊細。内角をえぐった後、外角へ変化球、又、その逆と細かいところを見せる。ストレート、シュート、スライダー、カーブに独特の味を見せる。 1975年に西沢正次、松林茂とのトレードで米山哲夫と共に太平洋クラブライオンズ(上記西鉄と同一チーム)から広島東洋カープへ移籍、同年の広島球団史上初のリーグ優勝に中継ぎとして貢献した。1980年限りで現役を引退し、以後は広島でスコアラー、マネージャー、広報部などを歴任。後年の役職は「広報担当部長兼一軍チーフマネージャー」で、シーズン中はチームに帯同し、試合中にはベンチ裏に待機し取材対応などの仕事を行っていた。フロント陣の世代交代を意識し2004年末を以って依願退職。この間1975年の終盤、優勝争い真っ只中の9月26日と9月27日に新潟市営鳥屋野野球場で対ヤクルトスワローズ戦が開催され、地元入りした(2日間とも登板機会なし)。同球場は設備が不充分で、控室も狭く使い勝手が悪かった。業を煮やした選手達から、三輪は口々に嘆息されたという。また引退後、マネージャーとなってからも新潟県内で試合があるたびに、三輪は毎回のように選手・コーチから施設に対する不満をこぼされていたという。 退団時には東北楽天ゴールデンイーグルスからフロント入りのオファーがあった。同年秋に発足したばかりの楽天はゼネラルマネージャーにマーティ・キーナートを招聘(翌4月、成績不振のため球団アドバイザーに降格)、キーナートと三輪は太平洋時代から約30年近く親交があったことから、広島での経験が豊富な三輪にオファーを掛けたものの、三輪は退職後は故郷にUターンする意思を早い段階で固めていた為この誘いを固辞し、予定通り新潟市に転居した。現在は地元の特定非営利活動法人「新潟野球人」に参加し、少年野球の指導などを行っている。江夏豊が広島に在籍していた頃、江夏は三輪を「悟ちゃん」と呼び、兄のように慕っていた。三輪は2009年6月に竣工した新潟県立野球場で7月7日・7月8日に予定されている広島対阪神タイガース2連戦の始球式のオファーを江夏に出した〔但し、広島や阪神が絡む試合での始球式については、これまでにも数回登板した事があり、阪神絡みでは田淵幸一と一緒に阪神のユニフォーム姿で出た事もあった。〕。三輪から直々のオファーを受けると「悟ちゃんが頼むんなら、断るわけにはいかん」と二つ返事で快諾。8日、同11回戦の試合前に広島のユニフォーム姿で始球式に臨み、観客から喝采を浴びた。なお江夏は、現役時代に三輪と初めて顔を合わせた時の印象について、後に「腰が低いので年下かと思っていたら、3つ年上だと聞いてびっくりした」と語っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三輪悟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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