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三遊亭萬橘 : ミニ英和和英辞書
三遊亭萬橘[さんゆうてい まんきつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [み]
  1. (num) three 
: [まん]
  1. (num) 10,000 2. ten thousand (used in legal documents)
: [たちばな]
 【名詞】 1. kind of citrus fruit 

三遊亭萬橘 : ウィキペディア日本語版
三遊亭萬橘[さんゆうてい まんきつ]
三遊亭 萬橘(さんゆうてい まんきつ)は寄席芸人名跡
珍芸「ヘラヘラ」で名を挙げた初代が特に有名であり、ヘラヘラを継承していない3代目が新聞で「ヘラヘラの萬橘は・・・」と書かれたほどである。
代々音曲師が継承していた。音曲噺を専門とする音曲師が全滅したためか、戦後この名跡を襲名する者は現れていなかったが、2013年に三遊亭きつつきが襲名した。
「へらへら踊り」はその後大阪宗右衛門町の料亭・南地大和屋が復活させ、現在でも演じられる。
== 初代 ==
1847年(逆算) - 1894年5月26日)本名は岸田 長右衛門。因州公お抱人足廻りの元締だったが、廃藩後は職を失い、日本橋浜町で萬長という寄席を開いていた。幼少から落語を親しみ、友人らを集めて素人連の一派を作り真打で南桂舎和朝と名乗って自ら経営する萬長の高座にも上がっていた、三遊亭圓朝にスカウトされ萬朝を名乗った。後に2代目三遊亭圓橘の門に移り三遊亭萬橘と改名した。
1880年頃、赤い手拭い、赤地の扇子を手にして、へらへら節なる他愛無い唄を歌い、奇妙な手つきで踊ったの珍芸が人気を得た。その芸を披露したのが1881年2月の金沢亭とされている。
この日の模様が「諸芸新聞」1881年2月11日付けの記事に次のように書かれている。
''「金沢の夜、萬橘(へらへら)、圓遊(ステテコ)、談志(釜掘り)、芝楽(5代目可楽)、圓生、いつも午後八時客止め。打出しの客をはかる他、二夜ほど巡査が来て制したりと」''
ヘラヘラ節至る所で流行し、女へらへらや子へらへらなどまがい者までも登場し、寄席をにぎわした。その後は大阪でも披露し以後は大阪を中心に終生活動予定であったが病気になり帰京後死去した。
「ステテコの」初代三遊亭圓遊、「ヘラヘラ節の」、「釜掘り」の4代目立川談志、「ラッパの」 4代目橘家圓太郎と共に明治の「珍芸の四天王」と言われもてはやされた。人気ゆえに「ヘラヘラ坊萬橘」と呼ばれた。享年48。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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