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上井 覚兼(うわい かくけん/さとかね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。父は大隅国上井領主であった上井薫兼。子は上井経兼(後に諏訪氏)。 == 略歴 == 上井氏の祖は諏訪氏で、祖父・上井為秋(諏訪為秋)の代から島津氏の家臣を努めていた家柄である。覚兼は永禄2年(1559年)の元服と共に島津貴久に仕えた。2年後に肝付兼続の籠る廻城攻めにて初陣を迎えて以後、日向国侵攻や大隅国侵攻で活躍している。 貴久死後は島津義久の側近として仕え、天正元年(1573年)より申次役に任命され、天正4年(1576年)からは老中の一員となって島津氏の政治を取り仕切った。同年8月の義久に就いての高原城攻め、天正6年(1578年)島津以久の副将としての石ノ城攻め、更に耳川の戦いにも参戦した。そして天正8年(1580年)より日向国の抑えとして宮崎城守備を命じられ行政面で活躍、日向地頭職に任ぜられ、実質的に日向一国を任されている。 天正12年(1584年)10月1日から7日までの一週間にかけて、島津義弘から金瘡医術の伝授を受け、秘伝の医書を与えられている。金瘡医術とは戦傷全般とこれに付随する病気、およびこれから派生する婦人病を扱った医術のことである〔宮本義己『戦国武将の健康法』(新人物往来社、1982年)p63-64〕。 天正15年(1587年)、島津家久に従って豊臣秀長の軍勢と戦ったが、敗れて家久と共に降伏する。そしてその後は伊集院地頭職に任じられ伊集院に隠棲、その地で病没した。尚、子の経兼から以後は、祖父以前からの姓である「諏訪氏」を称した。 また、覚兼は優れた教養人でもあり、彼が記した『上井覚兼日記』や『伊勢守心得書』などは島津氏の首脳陣の政策決定などを知る記録資料としてのみならず、信仰生活など戦国大名家の日常を知る記録としても高く評価されている。 == 脚注== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上井覚兼」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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