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上原 浩治(うえはら こうじ、1975年4月3日 - )は、大阪府寝屋川市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。MLB・ボストン・レッドソックス所属。 == 経歴 == === プロ入り前 === 大阪府寝屋川市出身。実父が監督を務める少年野球チーム「寝屋川アスナローズ」で野球を始めた。寝屋川市立第十中学校では野球部が無かったため、同じ団地内にある「明徳アスナローズ」で野球を続けながら、陸上部に所属した〔。高校は自転車で通えて野球が強いという理由から東海大学付属仰星高等学校に進学した。 1、2年時は中学時代に陸上部で鍛えた脚力を見込まれて外野手を務める一方で、練習では打撃投手を務めることも多かった〔上原「世界一クローザーへの軌跡」打撃投手だった高校時代 - 東京スポーツ・2014年7月23日〕。3年になって投手になるが建山義紀の控えでほとんど登板機会がなく〔、同校も夏の府大会で敗退したため全くの無名選手であった。その頃、建山がプロ球団などから勧誘される中、上原は体育教師になる夢を叶えるため大阪体育大学への進学に備える。受験にあたっては運動能力、学力とも合格ラインに達していると自負していたが、結果は不合格であった〔。 この時のショックは未だに忘れられないほど強烈なものだったが、浪人してもう一度受験することを決意。隣町の予備校(KEC近畿予備校)に通う傍らジムでトレーニングを積み、更に家計への負担を減らすために夜間は道路工事のアルバイトもこなした〔。この間の努力は「人生であれほど燃えた1年間はない」程だったという。またこの時期にノーラン・ライアン著の「ピッチャーズ・バイブル」を読んでトレーニングしていた。翌年、再度大体大を受験し合格、野球部に入った。1年半ぶりの投球は上原自身が驚くほど球威が増しており、監督の中野和彦が球速を測らせたところ146km/hを記録した。 その年の阪神大学リーグでは主戦投手として優勝に貢献。大学選手権でも好投し、プロのスカウトから注目されるようになった。大学3年時の1997年、日米大学野球選手権大会では大会タイの14三振を奪って、メジャー球団の関心を惹いた。この大会で速球が通用したことでプロでやっていく自信が芽生えたという。日本代表に選ばれた同年8月の第13回インターコンチネンタルカップ決勝で、当時国際大会151連勝中だったキューバ相手に先発して勝利投手となり、この年のインターコンチネンタル最優秀投手賞を受賞。秋の大阪経済法科大学戦では1試合21奪三振を記録。これはリーグ記録として残っている(2010年現在)。4年時の姫路獨協大学戦ではノーヒットノーランを達成した。大学4年間で通算リーグ優勝5回(1年春、2年春秋、3年秋、4年春)、36勝4敗、最優秀投手賞4回、特別賞2回という成績を挙げた。通算36勝と完封13はリーグ記録。 1998年のドラフトでは横浜高校の松坂大輔と並ぶ目玉と目された。大学時代は地元の近鉄バファローズがマークしていたが、国際大会の活躍で注目度を上げたことで、メジャー4球団を含む日米の複数球団が獲得に乗り出し、最終的にメジャーリーグのアナハイム・エンゼルスと読売ジャイアンツによる争奪戦となった。一時はエンゼルス入りに傾いたが、大学2年の時から熱心に勧誘し続け、他球団が松坂獲得を狙う中でも一貫して上原を熱望していた巨人が、巨人ファンだった上原の父親をまず説得。その後、本人が悩んでいるときに、父親から誘われ同行すると、その場にいたのが、当時巨人の監督を務めていた長嶋茂雄だった。本来、ルール上ではプロ監督とアマチュア選手の接触は禁止されてはいるが、「抜け道」の形で「偶然に顔を合わせ、同席した」。上原本人は喜ぶどころか逆に困惑し、父が巨人ファンであることを知っていただけに「巨人って、そこまでやるのか…」という気持ちが膨らんだ〔臼北信行のスポーツ裏ネタ通信:メジャーリーグでMVP級の大活躍――上原浩治はなぜ自らを「雑草」と呼ぶのか? (3/5) - Business Media 誠 〕。上原は迷いながらも巨人を逆指名し、1位で入団した。入団会見では「メジャーでやるにはまだ自信がないから、日本を選んだ」と述べ、悔しさを滲ませた。 また上原は背番号19を希望したが、この数字には、大学受験に失敗して浪人生活を送った19歳の1年間を忘れないようにという意味が込められている〔毎日新聞、2015年10月3日閲覧〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上原浩治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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