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上月城の戦い(こうづきじょうのたたかい)は、天正6年(1578年)4月18日から同年7月3日まで播磨国上月城で毛利輝元と尼子勝久との間で行われた合戦である。 == 背景 == 上月城は小城ながら播磨・美作・備前の三国の国境に位置する堅牢な山城で、毛利氏に属していた赤松政範および宇喜多直家が播州方面の軍事拠点としてこれを押さえ、毛利勢力圏の東方における事実上の最前線となっていた。しかし1577年(天正5年)、織田氏が中国攻略に着手し播州に入ると、羽柴秀吉の攻撃を受け陥落(第一次上月城の戦い)。尼子勝久を担ぐ山中幸盛(鹿介)ら、織田家に属していた尼子氏再興軍がこの上月城の防衛を任された。その後一時は宇喜多氏が反攻によって奪還するも、再度織田軍の手に落ちている。 しかし羽柴秀吉は上月城の奪取後も、表向きは織田氏に臣従しながらなおも立場を明確にしない別所長治、小寺政職ら播州諸勢力の懐柔に手を焼いた。1578年(天正6年)2月もしくは3月、別所氏が毛利氏側へ離反すると、東播磨の諸豪族の大半がこれに同調し、別所氏の本拠・三木城の7500を中心に籠城戦の構えを取る(三木合戦)。一方、羽柴軍の進出によって大きく揺らぎ始めていた東方の勢力地盤を固め直すため、毛利氏も早急に大軍を派遣して別所氏を援護する必要に迫られていた。また、同時期に上洛行動を再開する予定であった同盟者の上杉謙信に呼応するという意図もあったと考えられる。 いずれにしても、この時点で織田氏・毛利氏の戦線における最重要拠点は三木城へと移り、両軍にとって上月城の戦略的価値は半ば失われたと言っても良い。 本来ならば毛利氏は即座に播磨に進入し、羽柴秀吉の本軍を背後から脅かすことで直接的に別所氏を支援するべきであったが、しかし当地における毛利軍の活動拠点を提供することになる宇喜多直家の要請を無視することができず(或いは播州での戦況が滞った際の退路を確保するため)、吉川元春・小早川隆景の毛利首脳は直家が求める上月城の再奪還に応じることで、間接的に羽柴軍を牽制するという形を取った。 同月、総大将の毛利輝元は吉田郡山城を出陣、山陽方面を担当する小早川隆景が三原城を出陣、山陰方面を担当する吉川元春も日野山城を出陣し、上月城攻略に向かった。備前の宇喜多直家は自らは出陣せず、弟の忠家を派遣。他に毛利・村上水軍が播磨灘に展開し、海上の封鎖も完了した。総動員兵力は3万以上とされ、播州・姫路城に駐留していた羽柴軍を遥かに凌ぐ規模であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上月城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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