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上月 吏(こうづき つかさ、1887年4月8日 - 没年不詳)は、日本の映画監督、脚本家である〔キネマ旬報社, p.162.〕〔''上月吏''、''永井健''、日本映画データベース、2013年3月27日閲覧。〕〔''上月吏''、''永井健''、日本映画情報システム、文化庁、2013年3月27日閲覧。〕。本名および別筆名永井 健(ながい たけし)〔〔〔。 == 人物・来歴 == 1887年(明治20年)4月8日に生まれる〔。生地は不明である〔。 東京府東京市小石川区原町(現在の東京都文京区白山5-28-20)にあった東洋大学に、聴講生として哲学を学ぶ〔。その後は、新聞記者、地方巡業を行う劇団に参加し、事務、座付作者(劇作家)、俳優とさまざまな職務をこなし、連鎖劇にも出演した〔。1919年(大正8年)、護国活動写真製作所に入社、脚本係となる〔。当時手がけた作品名は不明である〔〔〔。 1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災を経て、関西に移り、同年11月、東亜キネマ甲陽撮影所脚本部に入社する〔〔〔。「上月 吏」の名で脚本を書きつづけ、翌1924年(大正13年)10月1日に公開された上月のオリジナル脚本の映画化『死よりも哀し』を監督し、満36歳で映画監督としてデビューした〔〔〔。以降は、上月の名で映画を監督し、本名の「永井 健」で仁科熊彦や賀古残夢らにオリジナル脚本を提供した〔〔〔。1925年(大正14年)10月30日に公開された桜庭青蘭監督の『闇を打つ音』にオリジナル脚本を提供した際には、上月の名でクレジットされ、以来、上月の名で脚本を提供するようになり、1927年(昭和2年)5月19日に公開された『ギヤマンの酒』では、初めて永井の名で監督としてクレジットされ、逆に上月の名は脚本家としての筆名となった〔〔〔。このころ原作や監督時の脚本で組んだ「竹井白路」は、当時の同社脚本部長であった竹井諒の筆名である〔佐藤, p.364.〕。1929年(昭和4年)7月7日に公開された永井名義での監督作『若草お新旅日記』を最後に、同年9月の同社の制度改革を機に同社を退社した〔〔〔。 1930年(昭和5年)4月3日に公開された『踊る幻影』(監督鈴木重吉)の脚本を書き、上月の名でクレジットされて以降は、永井名義を廃し、同年いっぱいは帝国キネマ演芸で脚本を書いた〔〔。1933年(昭和8年)に新進キネマが製作して公開された『路二つ』(脚本日疋重亮、原作佐藤紅緑)を監督したのが、現在みられる最後の作品記録である〔〔〔。『日本映画監督全集』(キネマ旬報社)において、上月の項目を執筆した岸松雄(1906年 - 1985年)は、1935年(昭和10年)ころ、東宝映画の東京撮影所(現在の東宝スタジオ)で、ときどき「縞の着物にセルの袴、粗末な男もののコウモリがさを片手に訪ねてくる中肉中背の老人」に見えた上月(当時満48歳)を見かけているが、それ以降の消息は不明である〔。このとき、岸に対しその「老人」が上月であることを教えたのは、かつての東亜キネマ脚本部長、当時の東宝映画プロデューサーの竹井諒であった〔。没年不詳。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上月吏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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