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上条 定憲(じょうじょう さだのり、生没年未詳)は戦国時代の武将。越後上杉氏の一族である上条上杉氏当主で上条城城主。通称は弥五郎、播磨守。別名は憲定(のりさだ)、定兼(さだかね)。上杉房実の子(あるいは孫、上杉顕定の子とする説もある)。 上杉房能を倒した新守護の上杉定実・長尾氏と敵対し、永正6年(1509年)の上杉顕定の越後侵攻に際しても長尾為景に敵対した(このときはのちに寝返って顕定を敗死に追いやったとされる)。以後は守護上杉定実に一貫して忠誠を尽くし、守護を傀儡化した長尾為景との抗争を続ける。 永正10年(1513年)9月に宇佐美房忠(ふさただ、定満の父)が小野城で挙兵し、上杉定実ら守護方と為景のあいだで抗争が勃発すると定憲も定実に応じて挙兵した。しかし10月下旬には定実は為景によって幽閉されてしまい、翌11年正月の上田荘六日市の合戦でも守護方が大敗。同年5月には房忠も岩手城で自害に追い込まれ、定憲自身は目立った動きに出ることが出来ないまま抗争は終結した。 この後しばらく越後国内の政情は小康状態が続くが、享禄3年(1530年)に定憲と為景のあいだで抗争が勃発した。為景はこの原因を大熊政秀(まさひで、朝秀の父)が定憲と為景のあいだを色々と「申し妨げた」ためと釈明している。しかし幕府を後楯にしていた為景を前に、揚北衆といった国人や上杉一門にも定憲に加担する勢力は少なく、将軍足利義晴の手引もあり翌年には収束した。 しかし、享禄4年(1531年)6月に為景が後楯としていた幕府の有力者細川高国が政変(大物崩れ)に敗れ自刃し、天文2年(1533年)9月には両者間で「再乱」が生じる。このとき定憲(定兼)は、上田長尾氏や揚北衆など国内勢力に加え、会津蘆名氏や出羽砂越氏といった国外の勢力も味方につけることに成功し、為景方への攻勢を強める。天文5年(1536年)には三分一ヶ原合戦で大敗するも、8月に為景を隠居に追い込んだ。その後の動向は不明であるが、一部史料〔高野山清浄心院の「越後国供養帳第一」には天文5年卒とある。〕によると、同年のうちに死去した可能性が高い。 諸系図では甥(または弟)に上条定明(さだあき)・上条頼房(よりふさ)らの名前がみえる。また、定兼(さだかね)を定憲の弟に置く系図も見られる。また、上条上杉氏は上条政繁が継いだとされる。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「上条定憲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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