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会津征伐(あいづせいばつ)は、慶長5年(1600年)に徳川家康によって行なわれた会津の大名上杉景勝征伐のことである。上杉征伐、会津攻めとも称される。この会津征伐が関ヶ原の戦いの幕開けとなった。 == 発端まで == 慶長3年(1598年)、豊臣秀吉が死去。秀吉から生前、嫡子・豊臣秀頼が成人するまでの間、政事を託された徳川家康が台頭する。秀吉死後の家康の動向を以下にまとめる。 ;慶長3年(1598年) *8月18日。秀吉、死去。 *10月25日。五大老・五奉行から、日本軍の朝鮮からの帰国が命じられる。11月半ばまでに撤退は完了。 *11月26日。家康、長宗我部元親の屋敷を訪問。 *12月3日。家康、新庄直頼の屋敷を訪問。 *12月6日。家康、島津義久の屋敷と細川幽斎の屋敷を訪問。 *12月11日。増田長盛の屋敷を訪問。 ;慶長4年(1599年) *1月3日。島津義弘(義久の弟)と島津忠恒(義弘の三男)の屋敷を訪問。 このように家康は諸大名の屋敷を頻繁に訪問したが、この訪問は他の大老・奉行には無断で行われており、豊臣政権の法令の一つ「傍輩のうち、その徒党を立つべからず」に反するものであった。 また家康はこの時期、他の大老・奉行に無断で諸大名との縁組を行っている。その縁組は次の通り。 *松平忠輝(家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の娘)。 *満天姫(松平康元の娘、家康の姪で養女)と福島正之(福島正則の養子)。 *万姫(小笠原秀政の娘、家康の曾孫で養女)と蜂須賀至鎮(蜂須賀家政の嫡男)。 *かな(水野忠重の娘、家康の従妹で養女)と加藤清正。 *栄姫(保科正直の娘、家康の姪で養女)と黒田長政。 これは豊臣政権の法令の1つ「諸大名の無許可での縁組の禁止」に違反する行為であったため、慶長4年1月19日、豊臣氏から無断婚姻の問罪使として三中老(生駒親正・中村一氏・堀尾吉晴)らが派遣された。家康は追及をかわし、2月2日に前田利家らと誓書を交わすことで和睦した。 しかし閏3月3日、利家が死去。同日、かねてから石田三成と対立関係にあった加藤清正・福島正則ら七将が、三成の大坂屋敷を襲撃した。三成は事前に襲撃を知り、佐竹義宣の助力を得て伏見城内の自邸に逃れる。なお家康邸に逃げ込んだとするのは根拠のない俗説である。その後、家康は仲裁に乗り出し、仲裁の結果、三成は五奉行から退隠、佐和山城に蟄居となる。 *9月7日。家康、大坂へ入る。宿所は三成の屋敷。 *9月9日。家康、重陽の節句のために大坂城に登城し、賀意を述べる。 *9月12日。家康、宿所を三成の屋敷から石田正澄(三成の兄)の屋敷に変更。 *9月28日。家康、大坂城西の丸に入る。 *10月2日。家康、浅野長政・前田利長・土方雄久・大野治長らが家康の暗殺を謀ったとして処罰する。長政は甲斐府中に蟄居。治長は下総、雄久は常陸にそれぞれ流罪。利長は生母の芳春院を人質として江戸に送ることとなった。 その後、家康は豊臣氏の蔵入地を諸大名に分け与えた。 *遠江浜松12万石の堀尾吉晴に越前府中5万石を加増。 *丹後宮津12万石の細川忠興に豊後杵築6万石を加増。 *美濃金山7万石の森忠政を、信濃川中島13万7000石に加増移封。 *対馬府中1万石の宗義智に1万石を加増。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「会津征伐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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